『一滴の油』長沢美津
〈きれいは汚い、汚いはきれい〉に近いものが見える。ただ、「土」はこの足元に広がっている空間を指しているし、浄土というのは来世に訪れるものであるから、時間と空間という概念をさらに埋め込んだ言い方ということになるのだろう。こういう実感をもちうることは、不思議とよくあるのではないか。
いま、この場を心底逃げ出したいと思うのと、逃げ出したいと感じる心のなかにおもいがけない自己愛が見つかって、この場にとどまったまま、不動の枯れ木のような自我をこのまま愛で続けたいという願望が生じることは両立する。仏教説話のように、苦しんでいるときにだけ現れる仏のようなものが自らの心にもある。その仏にすがりつき、不躾に触れてしまうなめらかな手の温かさは、ときに想像上の浄土そのものを超越する。自分かわいさを突き放すことは、私には最後までできないのだろうと思う。
掲出歌は特段そういうことを言っていないのだけど、「浄土も穢土も」浮かぶとき、なにかその人のこれまで見てきた世界のひととおりが、おぼろに再現されていることだろう。塞翁が馬、よかったとき悪かったときというより、生命というひとつのあり方をもっと混ぜ返したような何か……生を咀嚼しつづけることは創作者の運命のようなもので、もし、そのようなものにかかわりがなかったなら……という揺らぎのなか、まぶたが開いて現実を急に直視したり、目を伏せて遠ざけたりということを繰り返している。そして、まばたきはごく基本的な生理現象であるから、これは本当はだれしもに訪れている揺らぎであるはずなのだ。
『をとめよ素晴らしき人生を得よ 女人短歌のレジスタンス』(瀬戸夏子)によって理解を得たが、「女人短歌」の四十八年の歴史において、長沢は一貫して雑誌の発行実務に携わっていたのだという。事実と鑑賞とを早計に結びつけることを企図してこのことに言及したわけではないのだけれど、むしろライフワークとのかかわり方という点で、個人的にうっすらと感じるものがある。人生は有限だという言い方は、本当だし噓ではないかとこのごろ強く思っている。限りの有無といったものでとらえるべきでないとしたら、途方に暮れてしまいそうだが、まずはまばたきの合間に現れる光を見つめていくことでよいのだろうか。
陽がさして雪が消えゆくひとしずくあとなきことを思ひつづくる
