香川ヒサ『ヤマト・アライバル』
今はどうなのか知らないが、40年前は小学校の授業でローマ字を習った。はじめてアルファベットを使って言葉を組み立てるのはそれなりに楽しく、そのときはすんなりと学習できた記憶がある。その後中学校で英語の授業がはじまったときに愕然としたのは、ローマ字と英語はぜんぜん違うということであり、英語をマスターするためにはひとつひとつの対象に与えられた英単語を一から覚えなくてはいけないということだった。たとえば「少年」はローマ字で「syonen」と書けばそれは英語となり外国の人とも何となく意思疎通できるものだといううっすらとした信仰のようなものが中学校で簡単に崩れ去った。be動詞というのも「I」だと「am」、「He」だと「is」、「You」だと「are」になると教えられ、全部「am」で通じるじゃないかと怒り狂い、ときには泣きながら英語に抵抗を示しもう最初の時点で英語に躓いてしまったので、テストでは複数形の「s」と三単現の「s」の違いなども訳が分からず研ぎ澄ました直感とそのときの気分にしたがって「s」を入れたり入れなかったりして×をもらっていた。
自分語りが過ぎた。掲出歌を読んで自分の英語にまつわる過去が噴出してしまったのはこの歌が花についての歌ではなく言葉についての歌だからである。いろいろな花が咲いている庭の光景のゆたかさを引き連れながら一首は上句から下句までくだっていくわけだが、読者の視線が「囲まれて」あたりに来るタイミングからそのゆたかさが変質する。視野の端にあった「花の名前に」が視野の中心に移り、ゆたかさはせせこましさへとその質感を変えていく。これは完全にわたしという一読者の個人の体感に基づいた感触の変化なので絶対のものとは思わないけれど、この歌を読むことで花に限らずものというものにはすべてすでに名づけが終了していることの途方もなさやそれを行ってきた人間の執拗さに直面させられる。英語を習いはじめたときの息苦しさ、重たさといったものが自然とよみがえってくる。言葉は、あるひとつの世界のからくりの歯車であり、おびただしい歯車が嚙み合って生み出される流れの根源であり、人はどうしたってその流れにそって流れていくほかにない。今生きている人びとは花の咲き乱れる世界と言葉のがんじがらめの世界がアロンアルファのようなものですでに接着済みの世界を生きていくほかにない。花々のなかにあらかじめ埋め込まれたこまごまとしたものを思って、目がくらむ。
グーグルマップ航空写真にびつしりと地上を覆ふ固有名詞が
