渡辺松男『きなげつの魚』
そうか、鳩には手があってもあの細い指にはてのひらと言える場所がないのか、と思い、また、そうか、鳩の手は表と裏、甲と平の質感にまったく違いがないからてのひらと言うときにイメージされるやわらかさがなく、表も裏も手の甲みたいにごつごつしているから重ね合うことのよろこびや重ねられてほっとするような安心もないのだ、とも思う。しばらくそうやって鳩の手を思いながらやがてあれは手ではなく足であり、そういえば鳩には手というものがそもそもないのだ、と思い至る。手があって手の甲とてのひらがあって、その表裏に異なる表情があるのが人間の手であるけれど、てのひらにやわらかさがあったから重ね合わせるや撫でるという動作が生まれたのだろうと思う。もし人間の手の表裏がどちらも手の甲の質感であったなら、もしかしたら重ね合ったり撫でたりという行為自体発生しなかったのかもしれない。部位の質感というささやかなものが人類、鳥類といった大きな種別の行為の有無に影響を及ぼしている、そんな考えもちらほらと脳裡をよぎる。
鳩はその足を雪の積もった地面に置いている。二羽。つがいかもしれないし、つがいでなくてもおそらくはそれぞれが知った顔の二羽だと思う。雪の寒さに手、足を温めあうこともなくつかず離れずの位置に個々の存在を置くほかになく置いている。なんともいえずさびしく、孤独な姿であるけれど、これこそが鳩のいのちのかたちなのだろう。ぽつん、ぽつんとした二羽の鳩の点在は人間とはまた別の選びようのない鳩の存在の仕方であり、その光景をふかく目にすることで逆に手を重ね合い、手をつなぎ、手を取り合う人間のいのちのかたちが見えてくるのではないかという気がする。
てのひらのぬくみつたふるためにのみ永遠のきよりをなきひとは来る
てのひらにてのひら載するやさしさの木陰もせつにもとむればきゆ
掲出歌がおさめられた一連「てのひらと臼」には上記二首のような作品もある。てのひらは切ない場所だと思う。そこがやわらかくあたたかい場所だから一緒に重ね合わせたりつないだりできる他のてのひらを求めてしまう。しかし同時にやわらかいてのひらがあってもなくても、鳩も人間も存在のかたちというのはいずれにしても切ないものだと思わせられてしばらくじっとする。
