海に沿う地名の由来を紐解けば波が渡ると書いて「渡波」

近江瞬『飛び散れ水たち』(2020年)

渡波は「わたのは」と読む。想像するに、震災の記事を書くために石巻の海沿いの地区名をひとつずつ調べていき、ふと自分の育った町の名前を見直したとき、「波が渡る」と書くのだと気づいた、という場面ではないだろうか。小さいころから長く住んでいる地名というのは、まず音で覚えるものだ。「わたのは」という響きが身体に馴染んでいて、漢字の意味は意識のうしろに退いている。調査を進めているときに由来を見て、あらためて字を見たとき、音に覆われていた意味がふっと立ち上がる。その瞬間を、この歌はそのまま詠んでいる。

この歌に惹かれるのは、意味の劇的な展開がないぶん、韻律の良さをそのまま味わえるところだ。海・地名・由来・紐・波・書いて、とイ母音を多く含む語が連なり、全体に軽く弾むような調べを生んでいる。音は細かく跳ね、どこかぴちぴちとした感触がある。ところが、結句の「渡波」にはイ母音が含まれない。「わたのは」というやわらかな音のつらなりが現れ、歌の響きがふっと広がる。前半で弾んでいた音がここでほどけ、読後も余韻として残る。

その音の変化は、海辺の運動にも似ている。寄せる波と引く波が砂浜でぶつかり合い、ざあーーと広がっていく感触である。この歌には海の風景描写は一切ないのだけれど、それでも、音の運動だけが渡波という場所の景色と重なり合う。地名の語源を調べるという静かで体の動きから離れた行為が、結果として海のリズムに触れてしまうところがおもしろい。

何度でも夏は眩しい僕たちのすべてが書き出しの一行目

こうした、きらきらとした青春の感触を持つ歌が多いのが歌集の特徴だろう。ただ私自身は、むしろ現在という時間の手触りや、そこに立つ主体の屈折感が感じられる歌に惹かれる。「すべてが書き出しの一行目」という言い方は、希望に満ちた宣言のようにも読める。しかし同時に、過去には存在しなかった、しかし存在していてほしかった時間を渇望しているのではないか。

近代短歌以降、歌を詠む〈現在〉を固定し過去を回想する歌の様式がスタンダードとなった。「渡波」の歌はこの様式に乗っているが、「すべてが書き出しの一行目」は、十代のころの時間にタイムスリップした上で、歌を詠む〈現在〉の私を一度忘却した上で詠んでいるように見える。これは過去の回想ではない。

その意味で、近江の短歌には明るさと同時に、わずかな捩れがある。叶うことのない願いが、短歌という詠嘆の形式のなかに静かに収められているように思える。

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