吐く息の白から無色透明へかはりてここは春のうちがは

門脇篤史『自傾』(現代短歌社)

思えばつい一か月前までは当たり前のようにコートを着ていたのに、徐々に気温は上がり、上着の要らない日中も増え、ついでに花粉が舞い、桜まで咲けばもはやすっかり春だと確信する。冬は終わった。終わってしまえば冬のことなどかえりみることもなく、そういえば気づかぬうちに、冬の終わりとともに吐く息の色もまた「無色透明」に戻っている。たとえば冬のはじまりに、(なんだか今日は特別寒いなあ)などと思いながら、ふと吐く息が白い、そうかやっぱりもう冬なのか、とはっとすることがある。そのようにして、毎年その(息が白い)という実感を境に、くっきりと、おのおのに冬は訪れる。

そうであれば、つまりは冬のはじまりを吐く息の白さであんなにもリアルに実感したのであれば同じようにして、吐く息のこの「無色透明」にこそ、春はあらわれているはずである。もう吐く息は白くない。けれどおしなべて春の訪れというものは、どうしても花が咲いて虫が出てきたり、猫が気持ちよさそうに日向ぼっこしていたり、視覚に訴える情報が多く、そちらにばかり気を取られるようだ。気づかぬまま、ほんとうにはいま私たちは「春のうちがは」にいるのだと、絶えず吐きつづける無色透明の息のなかに、春が醸すあたたかくやわらかな膜のような、たとえばこうして見上げる春の空は、というより空にかかわらず目にうつるものがたいていそういうエフェクトがかかったように、やわらかい色調でもって存在している。それは、ここが「春のうちがは」であるからなのだと合点する。

『自傾』には、春の歌が多いように思う。というよりも、「ひかり」の詠み込まれた歌が多いことで、いま読めばこそ、春のやわらかさやあたたかさをこちらのほうで無意識に紐づけているのかもしれない。

錠剤はぶちまけられてきらきらと誰かの生きるちからはひかり

酩酊せしわれの買ひけむエクレアを朝のひかりのうちに食みをり

年上の部下に敬語でなじられてひかりの方をじつと見てゐつ

ぶちまけられた錠剤、どうも酔って買ったらしいエクレア、いずれもそこにすでに射し入る「ひかり」を捉えたというより、意識こそがひかりを存在させているとは言えないだろうか。年上の部下のひどく丁寧な叱責を受けながら、そのとき目が追うのは、やはり「ひかりの方」である。もちろん、これら「ひかり」の歌の季節は定かでない。けれどたとえば「春のうちがは」の膜のなかで、そこに漂う虚しさも孤独もひかりを浴びている。浴びながら、ひかりに負けることなく漂い、また根付いてそこにある、つまりは生きるうちにある負のエネルギーのしたたかさ、しなやかさを思う。

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