伊舎堂仁『感電しかけた話』2022年
「一睡もしてない」と言う状況が何かは書かれていないけれど、自分の過去の記憶の中で「一睡もしてない」と言ったかもしれない記憶がじんわりと引き出される。
友達の家で3人で飲んでいて、一番よくしゃべる一人が早々に寝落ちをしてベッドを占拠し、残る一人と私で静かに酒を飲みながら話していた。ひと通り話し終えた後に、中古のプレイステーションを起動して「鉄拳3」を立ち上げる。そこから朝までもくもくとラウンドをこなしていく。体に負荷をかけて時間を浪費し、楽しむ。そういう時の「一睡もしてない」は「昨日寝てないんだよね、あはは」みたいな諧謔的な言い方になる。
「一滴も飲んでいない」の方は、飲んでいる疑いをかけられた時にいうフレーズだろう。車の運転をする前か、あるいは飲酒運転のチェックを受けているときか、こちらは真面目で落ち着いた話ぶりで発する言葉である。「一睡もしてない、みたいな」おどけた言い方を「一滴も飲んでいない」で言ってしまうと、その言葉を受け取った相手は、本当は飲んでいるのにごまかそうとしているのか、と疑ってかかるだろう。
作者は「言い方が要る」というけれど、「要る」理由がいまいちわからない。「一睡もしてない」「一滴も飲んでいない」はどちらも、いきなり自分から発する言葉ではない。まず相手からの語りかけがあって、それに反応する形で「言い方」は決まっていくだろう。だから私はこの歌に対して、「合理的に考えようとすると内容がわからない歌」と、今は判断する。自分は合理的には理解できないが、それでも「言い方が要る」は真実だと思う。
この歌は、「一睡もしてない」で、読者であるところの〈私〉の過去の記憶の検索が起こるけれど、歌の後半に至って記憶の感触は「合理的によくわからない」がゆえに遠くへ言ってしまう感じがする。意味が消えた後に残るのは韻律である。残った韻律が優れているなら、この歌は秀歌になりうる。
注目したいのは「一睡」「一滴」が作るリズムと「言い方が要る」の終結感の強さだ。初句「いっすい」、三句「いってき」は句の頭に「いっ」がある。「いっ」の繰り返しを出しているから、結句「言い方が要る」の「いー」「いる」は期待すべき進行を裏切ってくる。韻律の展開にカタルシスを感じる。1・3・5の奇数句のリズムがこの歌の心地よさの鍵だと思う。
2・4句は奇数句を引き立てる。1・3句が句の頭と末の音を「い」→「も」で揃えるのに対して、偶数句「してない、みたいな」「飲んでいない、の」は音の構成をわずかにずらして次の句を期待させる展開を作っている。句の前半では「してない」→「飲んでない」という同じ音の構成を置き、句の後半は「みたいな」→「いない、の」と最後の音の母音を変える。こういった奇数句/偶数句のパートの展開が歌全体を引き締めている。定型以上の制約が多い歌なのだ。
小せぇお〜いお茶飲みやがって 小さいお〜いお茶を飲むな
同じフレーズの音の構成を変えてリフレインを作る、歌の音数はどんどん減っていき意味は薄れていく。意味を失いながら真実を感じさせ続ける絶妙なバランスがすごい。
電話しながらぼくがあなたも舞浜を言う真夜中のもしも これから
「舞浜」の出し方に感動してしまう。「舞浜」は字も音も美しすぎる。そのままでは到底扱える言葉ではない。「あなたも舞浜を言う」濁音のないやわらかな言葉で、歌の31音の湖の底に「舞浜」を埋没させて、存在感を抑えている。
韻律を読んでいくと定型以外の制約が見えてくる。どの制約を選ぶかは作者のスタイルによるところだろう。使う音を絞るのは現代の短歌という感じがする。要素を削ぎ落としていく。正岡子規が「旧思想を破壊して新思想を注文するの考にて、したがつて用語は雅語、俗語、漢語、洋語、必要次第用うるつもりに候」と語の拡張を言ってから100年が過ぎて、今は静かに、韻律の面での統合/洗練が進んでいく収束(シュリンク)の時代にさしかかっている。
