今日買った靴が何度も引っかかり今日買ったってばらしてしまう

山川藍『いらっしゃい』(角川書店)

駅までの道でつけていたイヤリングの片方を落として、家の前まで引き返したけど見つからなかった、とか飼ってる猫の調子がんまりよくなくて心配、とか大小さまざまな事情をそれぞれが抱えていて、差し迫って言う必要がなければ、あえてその日会う相手に伝えることはしない。たとえばそこで友人がふと、「最近猫飼いたいんだよね」などとつぶやけけば、実はうちの猫最近元気なくてね、などと自分のほうでも話すかもしれない。けれどそんなタイミングはじっさい多くはなく、だから「大小さまざまな喫緊の事情」のほとんどは、共有されないままに終わる。終わるというか、自分のなかでなんとか消化する。ほんとうに困ったことであれば、然るべき人に頼ったりももちろんする。けれど、そのほとんどは話されずに過ぎてゆく。

この服今日初めておろしたんだー、みたいな当人にしかわからないような情報も、だから自ら言うことはない。たまたまよく会う人であれば、「その服初めてみた、似合ってるね」などと言われるかもしれない、そしてそれは言及されればとてもうれしい。だから、おろしたての靴を履いてきたことも、何もなければ言わずに終わる。が、ここで主体はこの日おろした靴が「何度も引っかか」ってしまうことにより、そこで「この靴実は今日初めて履くんだけどめっちゃ履きづらい」と告白する。しかもおろしたての靴、というよりこれは「今日買った靴」である。今日買って今日履いた靴、にはまさに差し迫った事情が滲んでいる。それまで履いていた靴が突然壊れた。やむを得ず駆け込んだ店で買った間に合わせの靴。「ばらしてしまう」という表現には、そのように告白することに対する恥じらいを感じるが、それはなぜだろう。あえて話すに足るような話題ではない、という謙遜からだろうか。話された相手は「靴擦れつらいよね、絆創膏あるよ」と親切心を向けてくれるかもしれない。そうなんだー、わかるわかる、とあるいはフランクな同情を寄せるかもしれない。とにかく、言わなければ言わないままで過ぎていくはずの、自分にまつわるささやかな情報がこのように相手に知れている、そのほんの少しの居心地の悪さと、向けられた言葉の絶妙なバランスを思いながら、もしも自分がそんなふうに打ちあけられたら、その人と時間をともにする間、何度かその新しい靴にちらと目を向けるだろうと思う。別れた後も、余韻のようにその日自分のうちに残るのは、案外にその人の「何度も引っかかった」というその新しい靴であるかもしれない。

リラックマ手帳に変える生きるんだやりたいことをやればいいんだ

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