米田律子『木のあれば』2016年
「天空の城ラピュタ」で龍の巣という大きな雲の塊のなかを飛行機が通り抜けるシーンがある。ガタガタと機体を震わせながら乱気流を抜けたその先に、青い空と天空に浮かぶ城があらわれて、その瞬間にしばらく無音の時間がある。ずっと何か音が鳴っているシーンで突然無音に切り替わると、走馬灯をみるように時間の流れがゆっくりになる感じがする。米田の歌は「音の絶えけり」と無音の様子を直接書いていて、それが妙に説得感がある。
「青空を渡る彼方の白雲」は景色を大きく捉えている。遠くに見える白い雲に向かって機体が進んでいく。「入りて」「絶えけり」と、あっけなく音は消えてしまうが、実際は雲の中に消えていっても音はまだ続いているはずだ。どれほど遠くに行ってしまったのかわからない。ただ音が聞こえなくなってしまった、という視覚から聴覚へと主感覚が移っていく。「飛機」は文字通り飛んでいる何かのことで、旅客機なのか戦闘機なのかはわからない。飛行機というより「飛機」という方が物そのものの性質をよく表している。
「飛機航く」は「ひきゆく」と読む。「航く」は海を進む船由来の言葉なので、ただ静かに、自分の遙か上空を一機の物体が直線的に動いていく感じに合っている。深く考えずに言葉を選べば「飛機飛ぶ」となるだろうか。航空機や飛行機は名前の時点で飛んでしまっているので、さらに「飛ぶ」を加えるのは余計な気がする。かといって「飛機動く」では飛行機が遠くへゆっくりと去っていく様子が見えてこない。「飛ぶ」では早すぎるし、「動く」では細かすぎる。絶妙な言葉の選択である。
「青空を渡る彼方の白雲に入りて」までは主体がどこから青空を見ているかわからない。内容を読めば、地上から空を見ているとわかるのだが、「飛機航く」の印象はどこか機体と水平かやや上から見下ろすような視点の位置だと思った。飛行機が雲に入る様子を間近にみる機会はなかなかない。映画や夢の中で見かけるような、空中のとある位置から飛行機を見るあの感覚が引き出される気がする。この歌を読むとなんとなく懐かしい感じ、寂しい感じがする。わたしの場合は東北の夏の空を思い出す。それと倉橋ヨエコの「夏」だ。
主体は〈現在〉に取り残されている。私を置いて機体だけが遠くに消えていった。機体の姿は記憶の中でいつまでも色褪せずにのこっているが、私は変わっていく。「飛機」は死者のメタファーなのではないか。「絶えけり」の過去の「けり」は感情を抑えて突き放すようなニュアンスを感じる。音が絶えた、ただそれだけにとどめる。
韻律の構成をみると、上の句「青空を渡る彼方の白雲に」は句の終わりに助詞を細かく入れながら滑らかな調べが続いている。それに比べると下の句「入りて飛機航く音の絶えけり」は軽快なリズムがある。「入りて」の「て」に注目したい。ここまで句のまとまりは助詞を挟んで次の句へ移っていった。「入りて」にきて初めて、句の途中で助詞が挿入される。ここで軽く跳ねるのだ。「飛機」「航く」「音」といった二音の言葉が連続する細かなリズムも大きな特徴である。
青空を/渡る彼方の/白雲に/入りて飛機航く/音の絶えけり
上の句:句末「を」→句末「の」→句末「に」
下句:句中「て」→句中「の」
四句で跳ねるが、結句は落ち着いている。句末に助詞があると「青空を〜〜」と伸ばしても違和感がない。明らかに文の途中だからだ。定型を素直に使うタイプの上の句だろう。一首の中で韻律のモードを切り替える。句の終わりか、句の途中か、助詞の置き方だけでも歌の調べは劇的に、しかし静かに変化してゆく。
句切れを最後まで置かない構成も歌の内容に合っていると思う。全体的に落ち着いた調べだからこそ「入りて飛機航く」には一瞬のきらめきが出てくる。雲に入る瞬間、つまり機体が見えている入る前の時間と、消えてしまった時間、この二つの間に起こる不可逆で劇的な変化を、韻律が比喩していると言えないだろうか。
