岡野大嗣『夜なのに夜みたい』(集英社)
15ある章立てのなかで、みじかい散文と短歌が交互に置かれた充実感ある一冊。掲出歌は「音源」という章から引用した。それなりに長く住んだアパートの部屋を引き払う、その日の光景というのはどうしたって印象的にならざるを得ない。じっさい暮らしていたときにあった家具や雑貨やら雑多なものもすべてダンボールに詰めて送った後、これまでの見慣れた自分の部屋ではなくなって、ああ自分はここをもう出るんだな、あたらしい暮らしをまたあたらしい町で始めるのだな、などとにわかに感慨がわいてくる。すると退居するこの部屋の窓には自分の門出を祝福するようなやわらかな陽ざしが降り注いで、感慨もここに極まる。そのときイメージするのはなぜかはじめての一人暮らしのワンルーム、両脇のリュックの紐を握りしめて、がらんとした部屋を見渡している。ぺこりと部屋に?お辞儀などするかもしれない。
これは私の想像上の陳腐で勝手なイメージでしかない。じっさい退居するのはファミリーかもしれないし、隣にルームメイトがいるかもしれないし、そんな都合よく晴れてさえいないかもしれない。たまたまその部屋を去る日に差し込むかもしれない陽ざしは、ほんとうには今日に限らず「初めから差していた」し、ここに住む間中、晴れの日には同じように差していた。そのことをこんなにも都合よく忘れて、その日をドラマチックに演出したくなっているということに気づかされる。
終バスに近そうなバス 終バスに近い時間を時はつやめく
という一首も似たかたちで、どうしたって「終バス」のほうがドラマは起こりそうだし、そうでなくとも一首のアイテムとしては終バスであるほうがより掻き立てられるものがある、と思う(穂村弘〈終バスにふたりは眠る紫の〈降りますランプ〉に取り囲まれて〉しかり)。けれどもそれは終バスではなく、「終バスに近そうなバス」である。あ、まだあと何本かあるんだ、よかった。と思ってほっとしながら乗り込んだ人たちを運びながら、その終バス何本か手前のバスは、「終バスに近い時間」を、けれどもそれとして、つやめいている。「時はつやめく」、終バスでなくとも、半端な存在、(と思われる)一本のバスだって同じようにつややかに時をゆくし、人を運んでいる。ドラマチックでないことにもドラマはあるし、ドラマなど起こらずとも存在することが等しなみに光をはなつ。『夜なのに夜みたい』というタイトルからも、いまある夜をいったん一時停止して検分してみるような、いまが夜であることは疑いようはないのだけれど、うそみたいな、作りものみたいな、「夜みたい」としか言いようのない可笑しさ、心許なさ、さびしさ、くすぐったさがそこにはあるような気がしてくる。それも、そもそも「夜なのに夜みたい」と、言われるまでは決して気づかなかったことだとしても。
折りたたみ椅子をひらいて閉じるまでの長い一日 早い一生
