なにとなく草の花さく野べの春雲にひばりの声ものどけき

永福門院(『風雅和歌集』春中・一三二)

先週の日曜日はよく晴れていて、子供を連れて多摩川の河川敷に遊びに行った。多摩川の川崎市側の河川敷には大きな広場があって自由に入ることができる。春の時期は広場一面がシロツメクサの緑に覆われて、先週はちょうど白い花がぽこぽこと咲き始めたあたりだった。堤防沿いには背の高いハマダイコンの花が咲いていて、草花の高さの棲み分けがよくわかる。広場の真ん中あたりにテントを立てて寝転んでみると、盛り上がった草のほどよいやわらかさと冷たさを感じ取れて心地よかった。横になって地面と近い高さに顔を置いているとき、わたしはほとんど地面になる。平らな河川敷にどこまでもシロツメクサが広がっていて、同じ平面状に自分がいる感じが強くなる。

掲題歌の「なにとなく」は、何というわけでもなくの意味だ。現代の「なんとなく」より存在感の捉え方があっさりとしていて、どこか一点に意識を向けるでもなく茫々と空間の広がりを感じるのが「なにとなく」のニュアンスだろう。具体的な草の名前、例えば「シロツメクサ」と書いてしまうと、たくさんの草の中から一つの種類を取り立てていうような感じになる。物に心を寄せるように、草の名前や様子が心の暗喩となってしまう。この歌は本当にただぼんやりと開けた空間の中に没入して一体になっている感じがする。二次元的な広がりに自分を置いていると、空の広がりが特別に感じられる。自分とは異なる次元にあるように感じられるのだ。

永福門院が草の上に寝ているとまでは言わないが、「なにとなく」の後に一番最初に出てくるのが「草の花さく野べの春」というのはなかなかリアルではないか。

「なにとなく草の花さく野べの春」の茫漠感と比べると「雲にひばりの声ものどけき」は「ひばりの声」に注目があって、感覚を置く次元の違いを読み取れる。ひばりの姿は見えず、ただ鳴き声があった。自分の次元に鳴き声が差し込まれた、とでも言えるだろうか。あくまで主の感覚はぼんやりとした低次元の草原のイメージにいる自分で、そこにどこからか一瞬声が挿入される。次元の軋みのような超えがたいもの同士が擦れ合う境界が歌に表れているようなきがする。

なにとなく/草の花さく野べの春/雲にひばりの声ものどけき

歌の構造は3パートに分かれる。二句「草の花さく」の3・4音のリズムが「雲にひばりの」「声ものどけき」と四句と結句に続けてあらわれる。これだけ繰り返すと、結句の後も無限に続いていくような気がしてくる。歌の印象が清明さと平板さの混ざった感じになるのはこの辺りに秘密がありそうだ。「ひばりの声」を「のどけき」と感じるのは、声がした後にも、春の野辺が目の前に広がっているからだ。そこにあるものが変わらずにあり続けることに感動している。「ひばりの声」は春のリズムのアクセントの一つだ。

京極派の歌に惹かれるのは歌の中に、モナリザの背景の森のようなリアルがあるからだ。もっとも、写生の概念が入ってくる以前の話なので一概に比べられないけれど、「詞」よりも「心」を重視するという京極派の作歌スタンスが、図らずも現代の写生と繋がって見えるのは、中世の歌人たちが「心」の方に誰でも共有できる可能性と私個人の体験が成立する可能性のアマルガムを感じ取ったから、と言いたくなってしまう。心は未知で繊細なのだ。

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