教室にて小猿のやうにはしやぐ子がノートに自分の墓を描きをり

福士りか『サント・ネージュ』(青磁社)

中高一貫校での生徒たちとの日々が多く描かれている。同連作「まあまあ」に〈コクるといふ言葉とびかふ春うらら十四歳の背丈は伸びて〉という歌もあり、掲出歌における「小猿のやうにはしやぐ子」も十四歳、すなわち中学二年生なのかもしれない。小猿のようにはしゃぐいっぽう、その子のノートには自らの名前を刻んだ墓が描かれていたという。中学生、それも世に「中(厨)二病」などと言われる難しい年のころであれば、そのようなアンバランスな心と身体を抱えた本人自身がいちばんもどかしくあるのだろう、ということは容易く想像できる。

読み手である私も中高一貫校に勤めていることもあって、いかにもそんな生徒がいて、そんなことは起こりそうだなと思いはする。思いながら、じっさいこのような場面に出会したことがないのは、私がここまで生徒のことを知らないからだろうとも思っている。非常勤の私にとって、「教室にて小猿のやうにはしやぐ子」はそのまま、どこまでいっても「小猿のやうにはしやぐ子」でしかない。その内面、その二面性いや三面性、一人ひとりの多面を知らないままで、あくまで授業というかかわりのなかで(ああなんてうるさい生徒)としか思うに至らない。だからその生徒が、たとえば休み時間などにはひとりで席について、ノートにかぶさるようにして描きつけている、それが「自分の墓」であるかもしれないことをいつまでも知ることはない。

主体が、じっさいにその生徒に声を掛けたのかどうか一首からはもちろんわからないけれど、より大切なことは、ただ一首のなかではその子が小猿のようにはしゃぎながら、いっぽうで自分の墓を描いていた、その歌のなかの事実のみであるということだと思う。だから、つまり、という順接でふりかぶって、中二生徒のナイーブさ、などとまとめることをおそらくこの歌自体は望まない。たんに小猿のようにはしゃぐその場面だけでなく、主体は加えてその同一生徒が自分の墓を描くという一面を知っている。だからどう、というわけではない。ただ当たり前のように、それぞれの生徒に、教員の知らぬ無数の面がある。一首のなかで、ひとりのたった二面がちらちらと光って、それでいて何も写さずにいる。

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