長塚節(明治四十一年)
「雲」と「土」じゃないんだ、と思った。「春」と「土」が並んでいる。土は勝手に増えたりなくなったりはしない。空も常にそこにある。季節の中でもとりわけ「春」はふわふわとどこかへ行ってしまう感じがする。雨を土に返して軽くなった「春」は風に乗って去っていく。概念的な「春」が物化されている。それだけ春は特別な物だということだろう。
素朴な意味の写生から歌を始めた長塚節のメインの作風の歌ではないけれど、節の季節観がよくわかる歌で、惹かれる歌のひとつである。
「写生」を狭義で捉えれば細部の描写にこだわりすぎて再現性のある技術へ墜落してしまう。主観的な感覚に「写生」をまぶして読者に渡せるのが写生の本質なんじゃないかと思う。春は雨を蓄えていて、春の季節がやってくると春は雨を地面に降らして、土に返していく。春が含んでいる水分の所有者が土へと戻っていく。液体の水は重力に従って地面の方へ沈んでいく。仕組みを知っているから何も不思議はないけれど、空から水が降ってくる雨という現象はやはり不思議な物だと思う。
「あらかじめ」「ことごとく」奇数句は句ひとつが一つの語でできていて、まっすぐで太い柱がドンと置かれているように見える。「持てりし雨を」「土に返して」偶数句は句の中に名詞・助詞・動詞が組み合わされていて調べは細やかに変化する。 四句→結句「土に返して」(三・四)「春はゆくめり」(三・四)の繰り返しには強い終結感がある。句の単位と韻律が素直に組み合っていて、神社の鳥居のような要素の少ないミニマルな構造物を思わせる。
節の歌は、歌が素朴な形式であることを思い出させてくれる。原型に沿いながら歌を作っている感じがする。原型に沿うというのは歌への期待がそこまで高くない、ということで、歌の内容は基本的にはシンプルにまとまっていく。狂歌を通っている正岡子規と比べて、アララギ第一世代の歌人たちのうたはユーモアに欠けるところがあり、今読むと内容は地味なのだが、その分素材の質感がよく出ている。
雨・土・春
歌の名詞を取り出してみた。歌の質感はほぼこれらの素材によるもので、キュウリを斜めに切って3当分にしてお皿に並べて、鋭角な切り口の美しさが皿の上で引き立っているような、素朴な輝きが示されている。「あらかじめ」「ことごとく」が皿でその上に素材が並んでいる感じだ。皿が主役になっていないのが歌のポイントである。「あらかじめ持てりし雨」だけではいったい何が雨を持っているのかわからない。結句の「春はゆくめり」に至ってようやく「春」と「土」が雨を交換する様子を歌にしているとわかる。「春」が雨を土に返す、という独特な感覚がスッと入ってくるのは、アイディアをひけらかさない節度があるからだ。調べを感じ取れる歌には節度がある。
春の野にもえづる草を白銀の雨を降らして濕ほすは誰そ (明治四十年)
硝子戸の春の埃をあらはむと雨は頻りに打ちそそぎけり (大正三年)
