居酒屋はここの近くで割れている画面を友達と覗き込む

津中堪太朗『西瓜』第20号

歌の状況はよく想像できる。居酒屋を目指す友達とスマホの画面を覗き込む。地図アプリに示されるその目的地は「ここの近く」であるというから、やっぱりさっき来た道をひとつ戻って右に曲がればいいのかもしれない。いやそれならもうこのまま進んで左に折れる。などと、誰かとどこかを目指す時間というのはたしかに日々あって、私はあれがどうにも苦手だ。できるなら道案内は同行者に全面的に任せたい。もちろんひとりであればなんとか地図を見ながらたどり着く。ただ、何人かで地図を見合いながら目的地を目指すとなると、なんだか急に他人事めいて、ぼんやりしてしまう。

歌のなかの人物も、そうなのではないか。「ここの近く」というどこかぼんやり、ざっくりとした把握、何より地図のなかではなく「割れている画面」のほうに意識は逸れる。覗き込むスマホの画面の割れた状態に意識が向くということは、そのスマホも自分のものではなく、友達のスマホを一緒に覗き込んでいるのだろう。そんな想像から、きっと友達のほうが率先して「あっちの方から行ってみよう」などと案内を買ってでる。ありがとう、と思いながら着いてゆく。「割れている」のはもちろんスマホの画面なのだけれど、「居酒屋」という語と同居することでいかにも居酒屋のがやがやした感じ、皿やらグラスやら、きっと毎日ひとつかふたつは割れるであろう喧騒のなかを無意識のうちにイメージして、まだ行く前のその居酒屋の感じはすでに「ここ」にある、「ここの近く」に漂っている。

「友達と覗き込む」における、句跨りのすこしつっかえる感じが、行きつ戻りつ、けれど遠からず、きっとそのうちたどり着くのだろう「ここの近く」のその居酒屋への道のり、前のめりに足を運ぶ友達の感じ、なんだか一首は「いいにおい」がする。とても感覚的なのだけれど、なんだか体調のいい日、とかなんだか気分がいい朝、そういういい感じ、いい自分、向かうところの、友人とのいい時間。ざっくりとした言葉運び、他人事の軽妙さ、あわさって「ここの近く」の半径数百メートルの現在地の青い点滅が示すあたりはなんだか「いい感じ」である。割れた画面が示す青い点滅がこのあたりを少しずつ移動する。

夏に旅行の予定を立てて会うたびに楽しみだってことを伝える

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