鳳晶子(与謝野晶子)『みだれ髪』1901年
病みませるうなじに繊きかひな捲きて熱にかわける御口を ──
横になっている相手の乾いた唇を見て、喉が渇いているだろう、水を飲ませてやらねばと思って相手の体を起こす。そして、水を与えるのかと思うと、
── 吸はむ
逆に吸ってしまう。
自分の腕(かいな)を相手のうなじに絡ませて抱き寄せて、口づけする。発熱で汗をかいて脱水した状態の乾いた唇に自分の唇を押し当てる。自分のもう片方の手には水の入ったコップを持っているかもしれない。あるいはコップを相手の口元のすぐ近くまで持っていっているかもしれない。水を飲ませるその直前の瞬間の出来事が詠われている。看護の場面が官能的な場面に書き換わる。
「繊き」の把握が変に客観的な感じがする。自分の腕をわざわざ細い腕と説明するのにはどんな理由があるのだろうか。一つは、当時の読者向けに歌の状況をわかりやすく伝えるためであろう。まだ他に妻がいた与謝野鉄幹と自分との関係を示すため、象徴的な場面を選んだように思う。記号化された女性、ステレオタイプな女性の身体を示すのが「繊きかひな」であり、あえて記号を示すことで当時の規範からの逸脱/タブーの侵犯をことさらに強調しているように見える。
病みませるうなじにわれのかひな捲きて熱にかわける御口を吸はむ (改作1)
単純に腕を巻くという内容になるように「繊き」を「われの」に変えてみた。こうすると原作のタブー感はかなりマイルドになる。歌の内容は大きく変わらないが「繊きかひな」の方が場面がくっきりと想像できる。作中現在は「御口を吸はむ」とする瞬間にありながら、主体の意識は作中現在を頭の中で回想している。回想である以上、作中現在の時間の系は、歌のテクストを発話する現在とは異なる系に位置付けされる。作者あるいは読者が歌う時間の系=回想する「読詠現在」は作中現在を客観的に描写できる。「読詠現在」を共有できることで、記号や敬語は、読者と作者の間で共有可能となる。
「病みませる」「御口」の敬語表現もまたタブーの強調に使われてる。敬語を使うべき目上の相手だと示すことで、相手の身体が自分のコントロール下にある状況を伝えて、享楽的な感情を読者に伝える。男性中心の目線と同一化して自己の身体を記号化しながら、上下関係を逆転させる。
病む君のうなじにわれのかひな捲きて熱にかわける口をば吸はむ (改作2)
先ほどの改作からさらに敬語表現をなくしてみた。タブー感はだいぶ減ったと思う。ただ、「君の」「われの」と説明的な言葉が多いのはもちろんだが、享楽的な雰囲気も削れてしまった。晶子の歌の根源的な部分をも削ってしまっている。もう一度原作に戻ろう。
病みませるうなじに繊きかひな捲きて熱にかわける御口を吸はむ(原作)
タブーに触れているのを晶子自身も強く意識しながら、それでも衝動を止めることができない。ピリピリとした衝迫感が伝わってくる。動作は発作的だが、一線を超えてしまうことへのためらいと、今この瞬間を逃してしまったらもう二度を訪れないかもしない焦りが、「御口を吸はむ」気持ちを掻き立てているのではないか。
「繊きかひな」「病みませる」「かわける」「御口」
この歌には衝動を抑えようとする客観的な状況描写・確認の語彙が、歌の音数のほとんどを占めている。句を進むごとに、冷静に状況を把握しながら、まだ引き返せるけどどうするか考え、腕の中にいる相手の意識が朦朧としているのを眺めながら、次の段階に進んでよいか自問自答しながら、最終的に「御口を吸はむ」へと至る。
この歌の本質は、相手と対峙する緊張感なのではないか。対峙する私を記号的な身体に置き換えるとき、私に対峙する相手の身体は一個人の枠を越えた「男性」の記号へと肥大している。
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内田樹は『市場の芸術論』で「今・ここ・私」の視点でものを見ることを自制しろというようなことを書いていた。60年代の初期のビートルズのマッシュルームカットの髪型が「長髪」とされていたという当時の言説に対して、現在から見れば短い髪である、と言って異を唱えるのは無粋である。ビートルズのビジュアルは完成された作品である。作品を批評するにはいったい何が革新的と思われていたのか当時の状況を最低限押さえておく必要がある。
短歌を一首だけ取り出して読むとき、現在の私の「今・ここ・私」の視点は作中主体と渾然一体になる。客観的に作品を鑑賞しながら、同時に心の動きを感じ取ろうとする。短歌には情報が欠落している。短歌は「今・ここ・私」の視点を持ったまた主体の感覚を追体験するのを歓迎しているように私は思う。
