藤井柊太『パースペクティブ』(現代短歌社)
ひとつの自転車に乗るふたり、を注意する警察官、とそれを少し離れた後ろにいて見ている私、と歌のなかには四人がいる。影、とあることから夕方から夜にかけて、暗いなかを警察官の声によって、その「ひとつの影はばらける」、ばらけてひとつの影はふたつになる。たしかにこのような場面はあり得るのだろうけれど、それを見ていて歌にすることの巧みさを感じる一首。『パースペクティブ』には影(や光)の歌、とそれに近いと思われる歌がいくつかありこれも、これも、と目に留まった。
ほの暗い玄関で撮る うつらないだけで実在する傘の黒
鏡にはうつらないから気持ちだね 寒い季節に減りゆく錠剤
朝の光がひかるものだけひからせて昨夜からある水の常温
どの歌も、暗さ(明るさ)によって見えないがそこにあるもの、という視点で捉えられたものを歌う。「ほの暗い玄関」で撮られた写真に、その暗さゆえに写りはしないが、じっさいにはそこに黒い傘が存在する。というより「傘の黒」であるから黒い傘、とくっきりと輪郭が示されたそれ、ではなく暗さに滲み出すようなものの暗さ、溶け込む「傘の黒」なのだろう。ふと鏡に映る自分の顔、そこにはけっして「うつらない」ことで認識できる「気持ち」という不思議。飲んだ分だけ減ってゆく錠剤の、瓶の半端な減り具合。暮らす部屋の、間違い探しのような僅かな違いが、季節を経れば当然生まれ、部屋や暮らしの年季とはそういうものの積み重ねなのかもしれない。
あるいは、光のうちにもうつらないものはある。まぶしいほどの朝日のなかで、「ひかるものだけひからせて」そこには昨夜から常温の水が置かれている。またもや「水の常温」という書かれ方で、「常温の水」
と固定されるのではない、一晩かけて部屋にそのまま溶け出してしまったような生ぬるさ、もうあえて手にとって飲みたくはないような置きどころのなさがある。見えないがある、あるが見えていない、影のなかにも光のなかにもそれはある、さらに言えばそれはその空間にすでに滲み出し、溶け込んでしまっている。暮らしのものも人の影も、気持ちさえ、こちらがよく見ようとしない、見えていないところではのびのびとこの広がりのなかに在るのかもしれない。
サンプルの蟹と苺はあざやかに終わりゆく国 とても小さな
