五月をシロと名付ければシロはいつまでもわたしの鼻をなめるんだ

フラワーしげる『ビットとデシベル』(書肆侃侃房)

気づけば暦とともに何度でも思い出して、思い出せば頭のなかに巡らせる短歌のひとつになっている。今日から五月だ、明日から連休だ、という周りの高揚感も相まって五月のはじまりは特別なようにも、単に浮かされているだけのようにも思う。けれど何より五月のはじまりが素晴らしいのは、すべてこの気候にある。五月が一番いい気候、と毎年大真面目に思う。四月にはまだあった肌寒さはどこかへ去って、晴れていれば荷物は極力持たずに外に出て、両手を振って歩けばそれだけでこんなに気持ちいい。緑がまぶしい、つめたくもぬるくもない、爽やかな風が身体や木や家や踏切、すべて存在するものの表面を撫でて通り過ぎる。爽やかな風、という語は五月にしか通用しない。安易に用いられるべきではない、とまで思うほどに五月の晴れの日は素晴らしい、と信じて疑わない。

だからこの素晴らしい五月というひとつきを「シロ」と名付けて、「名付ければシロはいつまでもわたしの鼻をなめる」。シロ、鼻をなめる、という歌のなかの情報からほとんど無意識にシロは犬、イマジナリー犬のシロがやさしくわたしの鼻をなめている、そんなふうに想像していることに気づく。あるいは、食器と食パンとペンによる掲出歌のイラストのイメージも多分にあるかもしれない。大きな白い犬がわたしを包み込む。けれど、シロは犬でなくてもほんとうにはよいはずで、私にとってシロは風である。

「7・8・5・7・5」という韻律のなかで定型に収まった3、4句目の「いつまでもわたしの鼻を」という語がくっきりと浮かび上がってくるように感じられる。シロとはこの世で一番気持ちのよい五月の風のことだから、このひとつきを、思えばどこにでもいて感じることができて、「いつまでもわたしの鼻を」なめる、なでる、遊んでいる。名付けなければシロはいない。名付けたシロがここにいる、シロは吹いている。「わたしの鼻を」なめるとき、同時にシロはすべてをなめている、撫でている。木も葉も家も犬も道も音もすべからくシロのひとなめ、ふたなめ、ここにあるから光るし、あるから鳴る、揺れている。シロ、ずっとここにいてどうか去らないでほしい。そしてシロが犬ではなく風であり、場合によって風ですらないと感じるとき、「わたし」もまた、生身の人間である必要はない。シロになめられるその鼻は、必ずしも濡れている必要などないのだから。

洗濯は静かにはできないこと きみがいる窓の向こうを雲雀ひばりと呼びながら

 

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