雑木林におれがいてすごい おれはすごい 高く焚かれた火を舐める月

やまぐちわたる(第7回 MIRAI NEXUS U25)

「雑木林に」「おれがいてすごい」「おれはすごい」初句から三句にわたる七・八・六の字余りが気持ち良い。「おれがいてすごい」二句切れ、「おれはすごい」三句切れ、一つの歌の中に二つの句切れがあって、上昇と下降を繰り返すジェットコースターに乗っているように読む人の体を揺さぶる。

口語短歌はしっかり句切るのが難しい。そもそも「口語」(≒現代語)の短歌で使われる日常の話し言葉/書き言葉は文語と比べて歌い上げる機能が退化しており、たとえば動詞の終止形の句切れ感は文語よりもマイルドになる。形容詞も同様である。この歌の場合は、「おれがいて」が自分自身を特別なものとして取り上げる文脈を発生させるので、その直後の「すごい」形容詞は息がこもっているように感じられる。現代の短歌は、言葉を短歌に異化していく。詠嘆の形式から、言葉に注目させる・注目する理由を読者に補完させる形式へと進んでいるように思う。

高く焚かれた火を舐める月」はもはや呪文である。月に捧げるために宇宙空間に達する高さまで組み上げられた篝火が示される。歌は結句に向かって幻想的な仕上がりを見せていく。マルセル・シュオッブの「地上の大火」の「夜は過ぎたが夜明けはこなかった。大気は燃えていた」(訳:西崎憲)、あるいは漫画「チェンソーマン」のマキマの台詞「生命が寿命を迎えると死の他にあった4つの結末」を連想した。世界全体が火に包まれて終滅を迎えるような緊張感のなかで「おれ」だけが持ちこたえようとしている。酸欠世界で空気をどうにか得ようとする荒い呼吸が、「おれはすごい」を吐き出させる。「おれがいてすごい」状況把握をしながら、「おれはすごい」と自分に言い聞かせる。

高く焚かれた」は文章としては「たかく」「たかれた」三音・四音だが、音の味わいには「たかくた」「かれた」のリズムもうっすらと感じ取れる。「た」が刻むリズムに異様な高揚感があって楽しい。「おれはすごい」と言い終えた後に、今度は世界のありように目を向ける。リズムなしには受け入れられない現実が歌のイデアとしてあるのだろうか。四句には音への執着が見える。

火をひとつくれ そのあかりそのくるしさでずっと夜更けの森にいるから
小林朗人「終点」

歌の系譜を考えるなら、小林のこの歌をあげておきたい。小林の「夜更けの森」はやまぐちわたるの「雑木林」と結びつく。たった一人で、森の奥で火を掲げる。誰でにも見られない場所で、自分だけが知っている世界の摂理に触れようとする。幻想の系譜があるように思う。

雪の日雪に包まれている鎌倉は イルカの産卵シーンはもう見た?
/やまぐちわたる(第2回 MIRAI NEXUS U25)

やまぐちわたるの歌と呼応するように思うのは、

イルカがとぶイルカがおちる何も言ってないのにきみが「ん?」と振り向く
/初谷 むい『花は泡、そこにいたって会いたいよ』

だろうか。初谷の歌は定型の音数を脱していながら音読したときに心地よく働くリズムを持っている。「「ん?」と振り向く」にある六音+「?」の七音は歌のリズムを熟知した上での超絶技巧である。それに比べると、やまぐちの下の句「イルカの産卵/シーンはもう見た?」の八音/八音の字余りの展開はもたついた感じがする。もたつき感が作品として鑑賞に耐えるのは初句「雪の日雪に」の「ゆきのひゆきに」の同音反復と母音を変えた「の」「に」の助詞の展開によるところが大きい。細かな音の切り替えのリズムに乗った歌い出し、三句の後に一字空けを置いて「イルカの産卵シーンはもう見た?」会話のフレーズそのものを歌に入れる。上の句にたちあがったリズムは一字空けを境にして一度途切れる。助詞「は」の後に一字空けるのは相当強い休止感がある。この空白には、歌を一度止めるだけの何かがあったのだ。

「イルカの産卵シーンはもう見た?」の唐突な語りだしはリズムの空白地帯に新たなリズムを起こすにはやや無理がある。無理に詰め込んだ感じが、焦燥感を伴いながらガタガタと急いで紡ぎ出した言葉という印象を与える。ただそれが、相手の言葉を遮っていっているような、あるいは会話の続かない無音の時間を埋めたくて言葉を発した、そんな感じがするのだ。「雪の日雪に包まれている鎌倉」の冷たさが、作者の心の暗喩になる。鎌倉の主要な場所は人通りが多く完全な静けさを得るのが難しい。「雪に包まれている」静けさは、現実から隔絶された自分だけの時間の流れを思う。江ノ島水族館の水槽の前で静かに破滅を迎えようとしている二人の時間を、韻律に乗せて美しく表しているように思った。

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