黒木三千代『草の譜』2024年
黒木は1942年生まれ。2歳の頃に父を亡くしている。この歌には父の喪失と、もし生きていれば父の中に蓄積されていったであろう父から見た〈私〉の記憶が、父の中に永遠に不在である、という二重の喪失が感じられる。残された日記や祖母から聞いた話の中に父の生きる姿を想像する。いつまでも29歳のままの「お父さま」が「しら瓜」と結びつく。つやつやとした細長い「しろ瓜」を見ながら、父の年齢をはるかに越えて生きている自分の境涯を思う。「お父さま」と呼ぶのはどこか幼い感じがする。誰かに向けて自分の父について話すなら、父の呼び方は「父」というのが自然である。だからこの歌はごく個人的な独白として、幼いころに習慣づいた呼び名がアップデートされずにそのまま残っている気がして、とても寂しい。
「父」と父の中の〈私〉の二重の喪失は黒木にとって初期の歌集から通底するテーマではないか。喪失以後の永遠の時間を生きるような感覚が、日常の生活やテレビの向こうの世界にある翳りを歌に吸い付けてゆく。
キエーフの野に向日葵は韻きゐむ みづがねの酢の一壜を買ふ 『貴妃の脂』1989年
鶏頭の朱はむらむらと夏風邪がわれに微量の死を運び来る 『クウェート』1993年
1首目「みづがね」は水銀のこと。飲めば死にいたる金属の液体のぬらぬらとした輝きを太陽が降り注ぐウクライナのひまわり畑に見てとる。「韻きゐむ」は「響いているのだろう」と読んだ。ひまわりの大きな花が風に揺れる。葉が擦れる音、あるいはひまわりのすぐ近くに立てば茎の軋む音がするかもしれない。現実と幻想のあわいが言葉によって輪郭を持ち、震え始める。実際は日本で暮らしながら「酢の一壜を買ふ」のだとしても、ずっしりとした一本の酢の瓶を手に持ちながら、遠き海の向こうの地を、手の重みを介して感じ取ろうとする。
2首目「微量の死」は裏を返せば、夏風邪ごときでは死なないということである。黒木の歌には死への接近が感じられるが、自ら死へと向かっている感じはしない。歌の作りは塚本邦雄〈はつなつのゆふべひたひを光らせて保険屋が遠き死を売りにくる〉(『日本人霊歌』)とよく似ている。塚本の歌は保険営業へのアイロニーが効いている。暑い日にスーツを着て額に汗をかいているステレオタイプな中年男性をイメージできる。黒木は鶏頭の花が勢いづいている様子を「むらむらと」と詠む。「微量」の硬質な響きが歌に緊張感をもたらしており、塚本に比べるとさっぱりと乾いた印象を受ける。
「地下通路は抽象的な空間であるから迷ふ」 然り、了解 『草の譜』2024年
地下通路は上下の視野が狭く単純な線でできているから迷いやすい。わかる。このわかる感じが「然り、了解」と鉤括弧の外で書かれる。応答するまでもなく、自分のうちなる声として、静かに言葉を受け入れる。
黒木は他者との関わりと薄く保とうとする。何かを積極的に物申す人ではないのだろう。 『クウェート』の〈侵攻はレイプに似つつ八月の涸谷(ワジ)越えてきし砂にまみるる〉〈生みし者殺さるるとも限りなく生み落とすべく熱し産道(ヴァギナ)は〉と言った、取り上げられる機会の多い歌は、湾岸戦争への批判というよりも、自らに向けた内なる声によって自分の身体を燃やそうとする歌に見える。二重の喪失から身を捩らせて逃れようとする力が、『クウェート』のころの〈社会詠〉の形式を求めさせたのではないか。それは社会に何か働きかけようとする〈社会詠〉とは異なった形のように見える。
未来2026年2月号でゴウヒデキが「クウェート」の初出(「歌壇」1990年11月号)と歌集収録時の違いに触れていた。
マスタード・ガスに爛れしオウラもて靡きてこよと言はば 靡か む(初出)
マスタード・ガスに爛れしオウラもて靡きてこよと言はば 靡く、 か(歌集収録時)
推量・意志の助動詞「む」を「、か」と問いに修正したことで、自らも逡巡している最中であるかの印象が立った。
/ゴウヒデキ「騒がしい社会の中で、眠たい」(「再読 黒木三千代の三歌集」)
ゴウヒデキは歌の推敲に黒木の逡巡をみた。歌の意味は「なびくのだろう」から「なびくのか」という問いかけに変化している。通常つ問いかけは、問いかける相手を必要とするが、歌の場合は宛先のない問いは強い詠嘆となって漂うことがある。黒木の歌もイラクに侵攻したクウェートに対して何かを訴えるというより、ただそこで起こっている事象を、一度自分の中に取り込んで、言葉を向けている感じがする。誰に問いかけているのかあえて不明瞭にすることで、言葉の向き先がじんわりと自分に向いているような、そんな感じである。
歌集の『クウェート』の目次を見ると「クウェートⅠ」「クウェートⅡ」といった単純なタイトルが目につく。まるで日記の日付のように大きな意味を持たない単なる序列が付けられている。喪失によって空いている心の隙間に、外部で起こった喪失の〈物語〉が引き込まれていく。〈社会詠〉の見た目をしていながら、個人の歴史を詠んだ〈個人史詠〉とでも言えるだろうか。遠い世界のありようと〈私〉個人が、喪失の物語という共通点で結びついてしまった時の反応が、言葉に現れているように思う。
たつた二歳だつたのよお父さま 老婆になつたわたし しろ瓜
『クウェート』から『草の譜』までの30年、歌集の締めくくりとも言える2020年に、黒木は師である岡井隆の死去を迎える。
記憶のないころの父の喪失から時間が経ち、今度ははっきりと記憶に残るように師の喪失を経験する。岡井の記憶に刻まれた黒木の記憶も失われるのだが、二重の喪失は岡井の喪失によって父の記憶と混ざり合い、ひとつの区切りを黒木に感じさせたのではないだろうか。「老婆になつたわたし」とは、歳を取ってから経験した師の喪失によって、父の喪失を再現しながら、父から離れたパラレルな〈私〉となった自分の姿を、黒木が見たからだと思う。幼い自分の姿ではなく、老婆の自分となって父へ呼びかける。師の喪失によって、父の喪失を初めて経験したことが、この歌の深い寂しさの根底にある気がした。
個人史の内部に外部の物語を取り込んできた黒木は、岡井の死によって、自らを大きな物語の中に位置づけた。本人はこう読まれるのを望んでいないかもしれないが、『草の譜』は喪失の物語として、叙事詩のような普遍性を持った歌集になっている。
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こちらに第一歌集『貴妃の脂』、第二歌集『クウェート』、そして第三歌集『草の譜』が全篇収録されている。いずれの歌集も入手困難なので文庫が一番アクセスしやすい。
