筆のなかの濁った色が気分だった 同じことは二度と起きなかった

相田奈緒『現代短歌パスポート7』(書肆侃侃房)

連作「話したい話」から。思えば筆を持って何かを描く経験から遠く離れたところにいるけれど、使い終えた筆を細くした水道の水に沿わせながら、さっきまで使っていた色から始まり、時を遡るようにその前、そのまた前と、もう落ちたと思った色もじわじわと流れてくる、あの感じをはっと思い出す。筆を揉めばさらに色は複雑になり、最後は流しの側面などに押しつけるようにして水が透明になり切るまでを、けっこう念入りに洗ったものだ。ちゃんと洗わなければ、あるいは洗いそびれたままにしておけば筆はがびがびに固まってしまう、そのことをなぜか極度に恐れて、だからこうしてしっかり洗って、洗いながら実のところ、乾いた筆がやわらかさを取り戻すまでを片隅で意識している。

あの、「筆のなかの濁った色」、それ「が」気分であった。筆を揉み、水にさらしながら意識はぼんやりと、その色の濁りに寄っていく。寄りながら、けれどたとえば「濁った色の気分」でも、「濁った色は気分」でもなく、「濁った色が気分だった」という。その色こそが、気分そのものであると言われれば、そのいっときの自らの「気分」にとどまらないような、より大きな意識や気分のことを指すようにも思われる。たとえば午後の美術の授業の終わり、緩慢とした美術室の雰囲気、空気、ふざけだす生徒、とその場にいる性格も思考もすべてばらばらの人間たちをまとめあげるような力が、「が」という助詞には見え隠れするようだ。濁った色の、名状しがたいその場全体の気分、そういうものはたしかにあると思う、あのときもあったと思う。

一字空くかたちで「同じことは二度と起きなかった」のだから、上の句の出来事をそのまま受けているかどうかはわからない。でも、考えるまでもなく、そのときの筆の濁りの色も、さらに言えばそのときの場にあったはずの気分や空気というものも、当たり前だがそれはその場かぎりのもので、二度とは起きないし、起こらない。水に流れる筆の色の濁りがしばらく、水を流しつづけるかぎりは留め置かれて、一回性などと大仰ではないにせよ、けれどただ、その場の大きな気分というものがそこにあったことをあらわしている。いっぽうで、あまりに端的な謂いはハウリングするように、あのときのあれもこれも、同じように二度と起きない、起きなかった。過去形で書かれることですべてが終わった後のような静かでどこか不穏な感覚が残りつづけている。

グラデーションであれば話は楽だけどまだらになっているのが普通

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です