花山周子「暗渠」(『現代短歌パスポート7 無限っぽかった号』2026年)
「風」はどこに吹いているのだろう。
月に雲がかかっていて、雲が風に流されて何度も月の前を通過していく。月の位置は固定されているが、流れていく雲の流れがまるで月の方が動いているように見えたのだろうか。この場合は、空に風が吹いていることになる。三日月は光の面積がだいぶ絞られているので遠くに小さく浮かんでいると、雲がかかっている様子を感じ取りにくくなるので、地球に近い時期の月を見ていると思われる。
「夜空」とあるので作中現在は夜で間違いない。深夜に目が覚めてしまって、なかなか寝れずにいて、気晴らしのためにベランダに出てみると月が見えた。ぼんやりと目をこすりながら三日月を見ている。目の焦点が定まらなくて「揺れている」ように見えるのかもしれない。ベランダには風が吹いていないのに、月の周りだけ風が吹いているように見える。
あるいは、地上にも空にも風が吹いている。宇宙には空気がなくて風は吹かないのに、まるで月が揺れているように見える。
三日月が、風がないのに揺れている夜空は天動説を深めて
「、」を補ってみた。「が」の使い方が独特で、初句の直後という近さで「が」の二つ目を置くのはなかなかできない。「が」が連続すると、言葉の前後の関係性が不明瞭になる。三日月と風のどちらの話をしているのか、言葉の流れが輻輳する。そのため、体感としては「三日月が」の後にはやや長い間を読み取れる。「三日月が」「揺れている」と言おうとして、言葉の間に「風がないのに」を挟んでいる感じがするのだ。本当に揺れているわけではないと知りながら、揺れてしまっている月の姿を見て、実際と知識の差を埋めるために「風がないのに」といって辻褄を合わせる。ここにはちょっとしたユーモアがある。
「夜空は天動/説を深めて」四句と結句は名詞の句またがりがあるが、句またがりを強調せずに、抑揚を抑えて落ち着いたトーンで「夜空は天動説を深めて」と一息で読むのがこの歌には合っていると思う。歌の盛り上がりは「風がないのに揺れている」の気づきを味わうだけで十分である。
月がいつもより近く、大きく見える。歌の内容はこれだけなのかもしれない。月が近いことに驚きを感じるほど、久しぶりに月を見たおかげで「三日月が風がないのに揺れている」を感じ取った。月は地球の周りを回っているので、月に限れば「天動説」は正しい。「天動説」は古くなって使われなくなった知識のメタファーなのではないか。「天動説を深めて」いくと、地上と同じように宇宙空間も空気で満たされているような感覚にたどり着く。目に見える世界がどこまでも均質で続いていて、その延長に月がある。かつてはスタンダードだった知識が、今では活躍の場が小さくなっている。「深めて」とまで言ってしまうと、作者自身にも天動説の比喩が及ぶように思う。
夜の空に人の心のあらざれば冬の狐のごとく見上げる
同じ連作のほかの歌を引いた。夜空には人の心を映し出すような意味はなくただそこに空や月があるばかり。「狐のごとく」は手すりに両手を揃えて載せるポーズの意味と、天動説という知識なしにただ空を見て感じるままをいうという二つの意味を読み取れそうだ。いずれにしても、どこか寂しげな感じがする。たった一人で夜の空を見ている。
自転車を連ねて冬の夜のわれと娘はゆけり一本の道路
連作の終盤にはこんな歌もあって、「一本の道路」の中で「冬の夜」は〈私〉と「三日月」と「娘」を包み込んゆく。比喩のない平易な語だけで作られたこの歌は、ただ自転車で連れ添って道路を走っているだけなのに、〈私〉と「娘」がなんだか遠い。平易だからこそ、一本の道路を行くという当たり前のことが、二人の関係の象徴しているようだ。月を見る時は一人だったが、今は娘と並んで自転車に乗っている。子供はどんどん成長していくものだから、小さい頃と比べれば自分の近くにいてもどこか遠い感じがする。そんな意識がじんわり伝わってくる歌だと思った。
