『「育ちがいい人」だけが知っていること』という本ぜんぶ燃やして焼き芋

北山あさひ『ヒューマン・ライツ』(左右社)

おそらく同じ書名の本を書店で見かけてはじめとても驚き、ぎょっとし、以降見かけるたびに腹が立つ。しかも、どうもかなり売れているみたいだ。ということは本屋に訪れる多くの人が手に取ってそれを実際に買う。「育ちがいい人」だけが知っていること、をみんな知りたいのだろうか。ということは、手に取る際には(自分は育ちがいいとは思わないけれど)という後ろめたさというか謙遜があるのだろうか。多くの人への隙をついて恥とか見栄とか負の感情で煽ろうとして、そういう仕草が何より下品、ということをきっと素直な気持ちでこの本を手に取る人は気づかない。育ちのよさなんて鼻くそでしかないことをその読書からは知り得ない。

だから燃やすのだ、「ぜんぶ燃やして焼き芋」にする。これでよし、と思いきや、それがなんともタチの悪いことにこの手の本は類書というのか、続編のようなものが置かれているのを見たことがある。燃やしても燃やしきれない。下品な本はいくらでもあって、いくら焼き芋にしても腹が膨れて仕方ない。ひとりがんばって焼き芋を食べつづければお腹は苦しいばかり、こんな本が許せなくても、許せないのはともすると自分だけで、燃やした芋を食べて身体に取り込んで、芋はそのうち消化されるだけである。虚しさだけが残って、怒りは消えることもないのだと思う。

一首のなかに鉤括弧がふたつ重なることも歌のかたちとしては珍しく、不思議な感じを受ける。書名のなかに「」があって括られる言葉が「育ちのいい人」であるが、この「」はそもそもどういう意味なのだろう。読んだことがないから憶測でしかないけれど、「育ちのいい人」という語を強調するための「」だとすれば、むしろ「育ちのいい人」を糾弾する可能性はないのだろうか。ないのだろうけれど、ハイコンテクストとしてそのように読めるなら気になりはする。怒りを蓄えながら、行く末のない、すべてはそのエネルギーも自らの消費カロリーになっていく虚しさと、そのカロリーが、けれど他でもない自分の血肉となることの可笑しさと、その両方を感じさせる。

スノードーム割れてみーんないなくなるだから一汁一菜でええねん

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