多摩川の砂にたんぽぽ咲くころはわれにもおもふひとのあれかし

/若山牧水『路上』(1911年)

「おもふ」を恋するという意味で読むと、(たんぽぽが咲く)次の春が来るころには恋人がいたらいいな、という読める。素朴な内容の歌である。風景を想像しながら自分の情を歌うオーソドックスな歌の作りに見える。「おもふ」にはそこまで強い感情の動きはなさそうだ。失恋してしまったショックをいうには「たんぽぽ咲く」はぼんやりと朗らかな印象で、景色と情景の取り合わせとしては失敗している感じがする。はっきりとした言いたいことがなく、なんとなく口に出てきた、というような感触である。心に余裕があって、内容が軽い。それでいて心にじんわりと残る佳作だと思う。本当は切羽詰まった精神状態なのかもしれないが、歌の表面にはざわついた心の感じが出てこない。風景が歌の主題で、そこに自分のちょっとした心の状況を付け加えたように思う。

「多摩川の砂にたんぽぽ咲くころ」は目の前に実際に咲いているたんぽぽを見ているわけではなく、春の景色を象徴するものとして、頭の中で想像している。川の中洲は土がほとんどなくて砂ばかりで、植物は大きく育たない。背の小さな成長の早い草花から先に目を出して、うっすらと砂地を覆っていく。おそらく牧水が繰り返し見てきた、川のシーンであろう。この歌には循環する季節と自分を重ね合わせようとする意識が強く出ている。「ころ」をなくして、一回限りのこの瞬間の「たんぽぽ咲く」様子を歌っていれば、歌の印象は相当深刻な内容になるだろう。例えば、

多摩川の砂にたんぽぽ咲きゐたりわれにもおもふひとのあれかし(改作)

茂吉っぽい使い方で「ゐ」を置いてみた。回想でありながらその瞬間に時間をとどめておくように意識を集中させる効果がある詞だ。こうすると「おもふひとのあれかし」には恋する人を自分の中で喪失したと言った、若干ナルシズムの雰囲気を伴った悲しみの歌に見える。

多摩川の砂にたんぽぽ咲くころはわれにもおもふひとのあれかし(原作)

原作にあるぼんやり感は読んでいて心が落ち着いてくる。近代短歌の「内面的時間の統一」(玉城徹)は緩んでいるように見える。だが、それがいいのだ。アララギ系の歌は読み続けると疲れる。〈私性〉を深く読むには、読む側の体力も問われる。

玉城徹は牧水の歌の印象を「散漫」と言った。

牧水の歌の、大きな歴史的意義は、まず形式の呪縛から感情を解放し、風景を媒介として、自由な感情を表現した点にある。〈略〉このような使命を果たすには、「散漫な」様式が必要であった。

毒の香君に焚かせてもろともに死なばや春のかなしき夕べ(海の声)

(嶋注:「死なばや」は)切り離してみれば、切迫した口調であるはずだ。ところが、一首の調子の上では、おどろくばかり、もの憂い静かさ、のどけさを湛えたものになっている。自発的な意志を放棄したような精神状態である。しかし、それによって獲得された感情の自由さというものを、正しく認めていかなければならぬ。

/玉城徹『近代短歌の様式』短歌新聞社 p.320

「自発的な意志を放棄したような精神状態」とまで言いながら、玉城は牧水を高く評価する。ここでいう「形式」は、アララギ的な自己の見せ方が形式的に見える、という意図だと思う。人間の生活、生き様のような題材はどちらかというと歌の内容や調べが重い方に傾いていく。人生を謳歌するような歌は、アララギの形式にはそぐわない。「風景を媒介として、自由な感情を表現した」は、風景に特別なメッセージを見出しすぎない、自分に引きつけすぎずに軽く捉える牧水の作風をうまく言えている。

アララギ、と言ってもその源流にある正岡子規は内容が軽い歌も多くある。結核の苦しみと向き合ってきた子規のうたに深刻さがあまりないのは、子規の場合は平賀元義の狂歌を一度通過しているからで、歌の中にユーモアがときどき現れる。

芋坂(いもさか)の団子売る店にぎはひて団子くふ人団子もむ人 /正岡子規

自分の姿を消して細部を描写すると、市井の名もなき人たちがいきいきと動く姿が見えてきて、ユーモアが立ち上がる。牧水がどれだけ子規を意識していたかわからないが、狂歌とは異なる「軽さ」のルーツを牧水に見て良いと思う。狂歌もまた規範や形式に縛られる詩形であるから、そことはまた別の自由さが牧水の歌にはある。

鉄瓶を二つ炉に置き心やすしひとつお茶の湯ひとつ燗の湯 /若山牧水『黒松』

「団子くふ人団子もむ人」と「ひとつお茶の湯ひとつ燗の湯」は似ているが、牧水は自分の感情をふっと入れてくる。描写に徹し切らない。

「心やすし」をためらわずに言えるのは「自由な感情を表現した」だ。「ひとつお茶の湯ひとつ燗の湯」といった具体物は目に見えるものを定型の中に無造作に置いているように見える。空間的な認識を言葉に変えていく正確さには目を見張る。こういった景色の切り取りはアララギ的な技法なのだが「心やすし」が、景色への意識の集中を妨げている。その結果「散漫」となった歌は、じんわりと内容を味わえる独特の風味を歌につけることになる。牧水はものを見る確かな目を持ちながら、トリビアルな自然主義に落ち込むことなく、歌の持つ本質的な自由さにととどまり続けるバランス感を持っていた。

もう一度初めに戻る。

多摩川の砂にたんぽぽ咲くころは──

ここまでで歌は十分に「良さ」を持っている。どこかで見たかもしれない春の景色、自分が景色と一体になって日々の苦しみを忘れて心が軽くなるような、そんな淡い光景を歌っている。この十分さ、満ち足りた感じは、そう長くは続かない。

──われにもおもふひとのあれかし

長く続かない瞬間を、どうにか少しでも味わい続けようとする意識が、下の句ののんびりとした言葉の連なりから感じ取れる。何も言いたくないが、言わなければならない、定型のリズムの求めに、やわらかく答えていく。求めに応える感じを玉城は「自発的な意志を放棄したような精神状態」と言ったのではないだろうか。

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