堂那灼風「週末のカタストロフィ」『早稲田短歌44号』2015年
音が気持ち良い歌だ。ひらがなにしてみると仕組みがよくわかる。
ぐーぜんのかどをまがってあとなんどにゅーどーぐもをみあげるだろう
名詞「ぐーぜん」から二句空けて、下の句の頭に「にゅーどーぐも」が現れる。長音が初句で1回、四句で2回と段階的に増えていくので「入道雲」のモコモコとしたテクスチャがなめらかに感じられる。もしも初句に長音がなかったら入道雲の見た目の印象が強く出過ぎて韻律の味わいが損なわれる。
なんとなく角を曲がってあと何度入道雲を見上げるだろう(改作)
初句を変えてみた。音読すると「あと何度入道雲を」の「ど/にゅー」あたりで音が詰まって息苦しい。「ぐー」の音を一度身体に経験させておいた方がスムーズに読める。上の句/下の句の頭の音に長音をつける単純なルールが見える。四句ではそのルールを「にゅー」で守りながら、ルールを守ったことで感じる〈落ち着き〉をその直後の「どー」で破って、結句に向けてドラマティックな韻律の展開を期待させる。結句の開放感はルールを破ることであえて不安定にし、結句7音に収まる心地よさを釣り上げている感じがする。安定/不安定の繰り返しがこの歌の優れたところではないだろうか。
「偶然の角」は意味の上でも絶妙な味わいがある。歩いたことがない道を歩いてみる。歩いていて角があったらそこで曲がって次の道に入る。できるだけ複雑に進みながら、草が、土の中でいくつにも分かれながら根を広げてゆくように道路や建物の質感を感じていく。新しい住み始めてまだ1〜2年くらいのころの感覚を思い出す。家から少し離れると知らない道がある。路地の奥に写真館があったり、アロエの葉が鉢からはみ出して盛り上がっていたり、初めて通る道の質感は新鮮な気持ちにさせてくれる。
今この瞬間の景色を見ながら「あと何度」と瞬間を破ろうと考える、多義的な時間の流れが一つの身体を駆け巡る。
偶然に任せて街を味わう。「偶然の角を曲がって」目的地があるわけでもなく、ぶらぶらと歩いていくと、まっすぐな道が見えた。少し坂道になっていて遠くまで建物がない空いた空間が見える。一点透視図の消失点から空が立ち上がっている。あるいは、明治通りや環状線のような大きな道路に差しかかった時に建物同士の幅が広がって空が広く見えることがある。その時に「入道雲」が見える。雲はずっとそこにあったのだが、突然目に入ってきて驚く。入道雲は毎日見れるものではないし、名前に「入道」とあるように妖怪のような人間の認識を少し超えた存在のような感じがする。
夕暮れの圧力が来てわれわれは変わった色の世界に触れる
日常を異化して捉えようとする感覚が連作全体に出ている。主体自身もどちらかと言えば入道雲寄りの異化された側の存在として生きている感じがする。「われわれは」と言って、数の力で何か主導権を握ろうとする幼さがまぶしい。瞬間と永遠が同時に起こる「青春」の感覚を客観的に捉える。夕暮れの光が、今まさにピークに差し掛かろうとしながらやがては失われていく確かな予感が、歌に翳りを作り出す。世界のありようの中に自己の換喩を見出すのが青春の感覚なんだと思う。
