安田茜『結晶質』(書肆侃侃房)
カットされたケーキの鋭角はたしかに崖のようだな、ということに歌を読んで初めて思い至る。ホールケーキを切り分けて生まれる偶数個の崖たち。たとえばカフェや喫茶店にふらっとひとりで入ってもショーケース越しに(ケーキかぁ)と眺めつつ、けれど食べるわけではなく、自分の場合は誰かとゆっくりおしゃべりをするために頼むもの、という印象がある。相手としゃべりながら、少しずつ、ほんとうに少しずつケーキの一番尖った部分から削り取ってゆく。削り取られた断面がいつの間にか崖を生んで、レアチーズケーキはミルフィーユなどと違って途中で崩れることはあまりない。ゆえに崖はどんとん断崖絶壁と化してゆく。
下の句は、崖という語から誘発されて、崖に立たされるようなそれがたとえば窮地でも、なお「生かされるとか大袈裟すぎる」のだと言う。言う、というかこれは率直なもの思いであるように感じられる。たとえば会話のなかで生まれたつぶやきであったとして、つねに「生かされる」のは今ここ、をともにする私たち、という複数の主語を前提にしている気がするが、それはなんだかどうも居心地が悪い。道連れにしないでほしい。「生かされている」と勝手に括られて、他者からありがたさを押しつけられるようなそぐわなさ、たしかに「大袈裟すぎる」と言いたくなる、思いたくなる。この時代のこの不穏さにあって、だから生きているだけでもありがたいよね。もしもそんな会話だとしたらどうだろう。いや、そもそも誰に、何に生かされているというのか。人生や存在自体を人質にとられるような強引さが「生かされる」には漂っている。
「崖を生む/生かされる」と「生」という語が連続しながら、生かされてあるいま、ここ、私と思うときの実感のなさ、むしろ虚しさを伴って、「大袈裟すぎる」と思いはするが虚勢をはるようにも見え、どこか後ろめたさも引きずるように、目の前のケーキの崖をどんどん細く削っていく。ケーキはそのうちバランスを崩して倒れるか、あるいはフォークで倒してしまうか、どのようにしたってカットケーキは最後に倒れてしまうものだということを改めて思う。少しの胸焼けを余韻のように感じながら、レアチーズケーキの、砂のような土台部分を最後にフォークで集めて食べ終える。
とうめいな布があったら祈りだと思ってさわりそうだから嫌
