木は老いて痩することなし梅の実のみどり重たく庭を統べつつ

西藤定『蓮池譜』2021年

i母音を中心に調べを整えた歌である。初めの「木は老いて」は唐突な始まりで、この作者は一体何を言い出すのかと身構えてしまうけれど、「痩することなし」の言い切りに圧倒されて最後まで読んでしまう。一度最後まで読み切ると最初の一語で、読者の身体をi母音に慣らしておく働きがあると気づける、それがよく機能している。iの音は口を横に広げるので発声にすこし力が必要だ。序盤でi母音に触れておけば、その後に何度かi母音が出てきても、つまずかずに落ち着いて読める。

i母音のクライマックスは二句切れのあと、三句以降の「梅の実のみどり重たく庭を統べつつ」で、ここは韻律が光って見える。「みのみどり」の「み」の音の繰り返しのリズムで高揚感を出しつつ、後半下の句の「みどり/重たく」「庭を/統べつつ」の三・四音の同じリズムの繰り返し、「重たく」の「く」・「統べつつ」の「つ」にあるような句の終わりにどちらもu母音に置く展開は、深い落ち着きを感じさせる。句を越えて展開される複数のリズムの重なりを感じられると気持ちが良い。

「庭を統べつつ」は含みのある言い方で、「庭を統べつつ……」とこの後も歌が続く気がする。息を大きく吸い込んで長くゆっくりと吐き出すように、今この瞬間に一体となるように意識を集中していく、その過程が詠われていると感じた。

庭の隅に梅の木が一本だけあって、実の重さを木末の枝が支えている様子が「庭を統べ」ているように見えたのだと思う。この歌を含む連作「夏に順う」は祖父の挽歌である。祖父を中心にして見た時の、家族のありようを梅の木に思いを寄せながらしみじみと振り返る歌ではないだろうか。

梅の実ひとつでは重さと言うほどの重さはない。梅の木にたくさん実っている様子をみると、梅の木の細い枝先にも実がなっていて、なんだか重そうに見える。木はその場から動くことはできないが、実の重さというのは、実がついている間だけに起こる一時的な重圧なので、梅からしてもひとときの実りの季節のためだけに幹を太くするようなことはしないのだろう。人間の「老い」取り巻く人間関係は、いつかは終わりを迎える一時的な姿である。

生物史上の草の誕生は木よりもずっと後だ。春に地表近くに花を咲かせるホトケノザやオオイヌノフグリは一年のほとんどを種の形で過ごしている。初夏の時期にぐんぐん伸びる葛は幹を持たずに茎と葉だけでできている。草花は洗練された姿をしている。それに比べると年輪を増やしながら少しずつ大きくなっていく木は草よりも人間に近い。しかし、木には人間のような「老い」は起こらず、内部が朽ちても生き続ける。青々とした梅の実は、木にとっては盛りの季節のはずが、作者から見れば、重圧と釣り合いながら枝を伸ばし続ける、耐える時期であるかのように見えている。

老い人のいちにんさりて家はなお老い続くのみ 夏に順う

かなぶんを拾う ただしい向きに置く 出窓の西は雨雲である

アメリカにいってこいよと俺に言う そのうちね、この鮭を焼いたら

「夏に順う」は夏の風景の一部として見えるもの、自分とは切り離された遠い存在としてそこにあるもの、というニュアンスで受け取った。その場にいながら遠く感じる感覚はよくわかる。かつて祖父と共に暮らしていた自分の一部のような家が、夏の景色のなかに客観的に見える建物となる。

二首目、「向き」は方角だろうか。あるいは仰向けになったカナブンを拾って裏返すのか。後者の読み筋で読んでみよう。生きていた時の姿に近づける。向きを変えてもまた動き出したりはしないとわかっていてもそうせざるを得なかった、受け入れられない死の姿がそこにある。漢字からひらがなに開かれた「ただしい」の字からはほのかな諦念を感じ取れる。「拾う」と認識した時点で、そこにあるカナブンは静物となっている。

夏の日差しのなかでカナブンを拾う。遠くに黒い雨雲が見えていて、もうすぐこのあたりも暗くなる予感がする。

記憶の中のある時点をいうのに、口語の現在形は適しているように思う。今という瞬間的な時間に織り込まれている様々な記憶の断片が、短歌という詠嘆の形式によって言葉の結晶となり輝きを持ち始める。口語の歌は文語と比べると軽く感じるものだが、この軽さというのは一首で認識する時間の幅かもしれないと思う。時間を今に固定して過去を回想しようとすると、時間の流れや因果関係を正確に把握するためにちょっと頭に無理をさせて意識を今に保つ力が必要になる。短歌の場合は、韻律が意識を今に保つための力になる。文語の調べが豊かなのではなく、文語は調べを鍛えないと、読める歌にならない。

沈丁花 架空の文字を考えてそれが漢字に似てしまうまで

歌集から一首代表歌を選ぶならこの歌だろうか。「沈丁花」は「架空の文字」と近くにあるせいか、歌全体とよく溶け込んでいて、香りや花のかたちといったテクスチャの味わいは韻律よりもだいぶ後ろにある感じがする。歌の主題は二句目以降、文字を考える行為・なんども文字のデザインを書き直すうちに漢字に似ていくという自分に蓄積された癖からの逃れがたさに気づくところにあるだろう。上の句は「考えて」の「て」で終わり、下の句は「しまうまで」の「で」で終わる。句の終わりにe母音の繰り返し置いて歌の終結感を鈍くする。歌はまだ続くかもしれない、しかし五句で終わらせなければならない。思い通りにはいかないもどかしさと、思いがけない形へと変わっていく驚きが混ざり合った歌だと思った。

 

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