摑みゐるものなきままにクレーンより垂れたる鉤は陽を反しをり

志垣『空壜のある風景』1977年

「摑みゐるものなき」は作者の発見だと思う。クレーンを見た瞬間に自分の心のありようとクレーンが結びついて発火した心のざわめきを初句・二句で提示する。「摑みゐるものなき」の主観的な把握から歌は始まるが、その後は「垂れたる」「反しをり」のように自動詞性のある言葉が続く。三句以降は景色を見ることに集中し、心を落ち着かせて、客観的な描写の言葉を繋いでいく感じがする。

一語一語の選び方・語順の正確さが冴えている。その日の作業を終えて夕陽の中に佇むクレーンの姿を「摑みゐるものなき」という。ただ動かずにそこにある光景に〈あるべきはずのものがない〉という喪失のニュアンスを思わせる語の選択に作者の心の暗喩を読み取れるだろう。「垂れたる」も目に見える状況を的確に言いながら、どこか翳りを感じさせる。ジリジリとした西日の中で喪失を抱えながら日の光に照らされている。

一首の中で視点が変化していく。初めはクレーン全体を見ていて、その後はクレーンの腕の先にある「鉤」に注目し、太陽の光の反射を見る。全体から部分へピントを合わせて行って最後に「陽を反しをり」 で景色に広がりを作り出す。

音がない。色彩がない。動くものがない。

/佐藤通雅「志垣澄幸覚書」(「路上」33号、1980年)

たしかに「動くもの」はない。歌の内容は、ある瞬間の景色を言っているだけだけど、その一瞬の中でカメラをズームしていくように空間を動く感じがする。奥行きのある歌だ。

志垣の優れている点は、偏愛とも言える物への心寄せが見せる細部へのズームアップにあると思う。静物を読みながら、心のありようと物が結びつく瞬間を、避けがたい自然現象のように捉えている気がする。あらかじめ伝えたいことがあって、それにふさわしいものを探して言葉を選ぶというより、心が結びついて発火してしまった、理由を説明できない思いがけない驚きが、志垣に自動詞性(ミラティヴィティ)のある言葉を選択させるのではないか。

逆さまに振られし壜の乳液が底に還らむと幾筋も垂る

透明をあまた重ねて積みゆけばガラスは海のごとき色もつ

退くことももはやならざる風のなか鳥ながされて森越えゆけり

自分となんら因果関係のない風景に対して、自身からの一方的な心寄せを自覚しながら節度を持って言葉を選ぼうとすれば言葉は自ずと自動詞や受動態に傾いていく。そこにあるものに直接手で触れようとはしない。だから「動くものがない」のだ。しかしモノから意味を受け取るという点で、志垣は〈心でモノに触れている〉と言えるのではないか。

「乳液が」「幾筋も垂る」といった図形的な把握、単純化された線や透明なガラスの重なりといった、要素の少ない構成が歌に冷たさと艶を与える。広い空間にモノがポツポツと置かれているような落ち着いて清潔な空気感に、強く惹かれる。


『空壜のある風景』は現代短歌文庫72『志垣澄幸歌集』に全篇収録されています。 https://www.sunagoya.com/?pid=156424714

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です