庭に干す子の布靴のうちがはを月照らしゐつ骨のしろさに

大辻隆弘『抱擁韻』(砂子屋書房)※引用は『大辻隆弘歌集』現代短歌文庫48

子の足に布靴はかせつつ寂しこの布靴に左右さうのあること

掲出歌より前に置かれた連作「廃井」にも同じモチーフの歌がある。「布靴」というのは今で言うファーストシューズのようなものだろうか。まだ歩き出す前の赤ん坊に履かせるやわらかい靴。あまりに小さく、並べてみれば可愛らしく、またこんなに小さな靴に「左右」があることが不思議である。私はどちらかというとその「左右」に頼もしさというか、これから自分で立って歩いてゆく姿を思えばいかにも前向きな思いが立ち上がりそうなところ、大辻の歌はそこに寂しさを見て取る。

その靴は布製であるゆえに容易に裏返すことができる。洗って干した布靴の裏、「うちがは」に当たるのは日光ではなく月の光、その一日の穏やかな連続性を感じさせながら、月光と洗い立ての靴の内側とがあわさるその色は「骨の素さ」であると描かれるところに不穏さが宿っている。その不穏さというのも、大仰でない、あまりに自明のように描かれる不意打ちの感にむしろ読み手は虚を突かれる。

子を乗せて木馬しづかに沈むときこの子さへ死ぬのかと思ひき

この歌を知ったときも布靴の二首と同じような感想を抱いた。遊園地のメリーゴーランドに乗る子どもを柵の外から写真などを片手に手を振って見守っている。木馬はなめらかに進みながら同時にゆっくり上下に動く。子どもはきっと笑顔であるが、笑顔のまま子どもを乗せた木馬が下へと沈んでゆくそのときに兆すのは「この子さへ死ぬのか」という思いである。目の前にこんなに楽しそうな子の笑顔がある。はちきれんばかりの命いっぱい、だからこそあまりに信じがたく「この子さへ」と思ってしまう。

布靴が月光によって「骨の素さ」を映しだすというのは感覚として、まだ赤ん坊という存在がどこか不確かであまりにか弱く、ともすると生よりも死に近しいということを表していると合点がいく。ただ、成長するにつれ子はたくましく、生命力をぐんぐん漲らせて、死からは遠い存在になっていくはずだ。であるのにメリーゴーランドに乗る子を見れば、やはり避けがたく死は張りついて、そのことを歌の私はありあり感じている。あまりに遠い死の気配を鋭く察知する。嗅ぎ取ってしまう。あり得ないと思いながら、感じているところに、その子のひとりの親、という枠を超えた命そのものの儚さへの直観というものを感じずにいられない。

みどり子は窓辺にねむる足裏あなうらの生命線を風にさらして

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です