さとうはな(「未来」2021年11月号)
人間の体を単純な線で書くと頭と手足の5つのまとまりを書くと思う。クサイチゴやソメイヨシノの花が五枚の花びら🌸でできているように5という数字はなんとなくキリの良い数字だ。最小限の数といえば三角形の3だけれど3はどうもストイックというか、余裕がない感じがするので5くらいがちょうど良い。どちらかというと最適の範囲内で最大限の数字が5のような気がする。
「水面」はおおよそ自分よりも大きな水の集まりの水平面を言うのが自然だろう。海や川の水、プールの水、自分の体を入れる場所に理想の水面はある。小さな水たまりにも水面の部分はあるのだが、それは理想の水面の比喩なのだ。水たまりを見ながら一度みずうみを想像し、水面のイメージを重ね合わせる。
際限なく広がる大きな水辺のイメージを人の体の中に見ようとする意識が「にんげんに五つあるという水面」を引き出す。実際に水面と言えるほどの水面が人間の体にあるのかどうかはわからない。眼球の中やさまざま臓器の中に含まれる水分は体の隙間を満たす液体であって、カッパの頭の皿のように水をたたえた「面」が露出している部分はない。うっすらと水を含んだ粘膜があるだけだ。
「にんげんに五つある」とは肉体の内側に心がある感覚を言っている。内側にはあるがどこにあるかわからない。体の中は四次元ポケットのように時空が広がっていて、そのどこかに心があるという見方をしているのだろう。どこにあるかはわからないが確かにあると感じるもの、なみなみと水に満たされている透明なグラス、そのうちの一つを単純に〈心〉と呼ぶ。〈心〉以外の4つは名づけ得ない何かで、心身二元論的な考えから離れた未知なるものを指すと思う。仏教の唯識では心を階層に分けて無意識へと降りていくような捉え方をするけれど、作者の感覚では、惑星の三体運動のように複雑に動きながら相互に影響し合う予測不可能な動きを〈心〉から感じ取っているのではないか。
〈心〉のように捉え所のない何かが5つもあるとしたら、体を少し傾けただけで5つのうちのどれかから水がこぼれてしまいそうだ。水面を揺らさないように恐る恐る歩くのか、溢れることを受け入れながら動くのか。作者は「オカリナを吹く」ことを選ぶ。ごく限られた音階を出すことに特化した素朴な作りのオカリナの音色が広がっていく。
くり返す浅いねむりの明け方に鹿から赤いセーターを買う(「未来」2026年5月)
