年月にのっかり大人となりましたマトリョーシカの重ねただけの

川田ゆかる『ハムの少ないハムサンド』(角川書店)

歌集はどうしても事前にある程度作者の情報を知った上で読み始めることが多い。◯◯さんの歌集がついに出たのか、など少なくとも名前と所属や歌歴や時代を(知ろうとしたというより知ってしまっている)人の歌のまとまった一冊、として読み始めている。なんなら私はまずどんな本でもあとがきから読んでしまうので、歌集も当たり前のように最後の頁を開いてしまう(しかも自分の歌集にはやたら長いあとがきを書いてしまった)。

『ハムの少ないハムサンド』にはあとがきがない。潔い!と思いつつ栞を読む。まっさらな状態から読みたいから栞や解説は最後に、という人もいてすごいなぁと思う。けれどもちろん、あとがきや栞を先に読もうが、実際自分で歌を読んでみないことには始まらないし何もわからない。わからないはずなのに、何かを先に拾い集めにいこうとしてしまう仕草が自分にはどうしてもあるらしい。

江戸雪が「これは短歌なのか」というタイトルで栞文を寄せており、いい意味でこの歌集には私も新鮮に短歌っぽくなさ、を感じることが多かった。詠まれる事柄、場面云々というより、言葉の運びが意図的かそれとも無意識かそのどちらもか、どうも跳ねている、大胆である。掲出歌に立ち止まったのはそのような意味で、ここでは「の」に注目した。意味を自然に通すなら「マトリョーシカを重ねただけの」であるところ、「マトリョーシカの重ねただけの」、ここで躓くように、たしかに「の」が三度繰り返されることがもうマトリョーシカっぽい。と思えばこういう言葉の斡旋は意図的なのかもしれないが、慎重な手つきというよりも、より感覚的に詠まれたそれがあとから歌の魅力や読みを拾うきっかけになっているように思われる。

こうやって一日はまた過ぎていき明日の九時には会社に座る

一度は読み飛ばしてしまったが、やはり「会社に座る」が面白い。「デスク」とか、より仔細に「軋む椅子」とか方向としては具体的な場面を持ってきそうなところ、「会社に座る」と言われれば、たしかに私たちは日々そのくらいの解像度で慣れた場所を思い、また言葉にしているのだからこちらの方がリアルである。無表情のままどしんと会社に腰を下ろす巨大な私、という妄想もはたらく。あるいは「過ぎていき」にもどこか慣れや惰性とは逆方向のよい軋みがあって、これが川田ゆかるの音なのだなと思う。対象をざっくり捉えながら、そこにある細かなノイズを楽しむことができる。

二十年ぶりの友らが立っている大きな餃子の模型のしたで

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