ユニクロとミスドとセリアのある街を「ぜんぶあるね」と言いながら行く

伊波真人『ブルーアワー』(書肆侃侃房)

あとがきに「(第一歌集である『ナイトフライト』には)たとえば、固有名詞についても、百年後も使われていそうなものしか詠み込まないようにした」とあるが、「ポップ」さを追求したという今作『ブルーアワー』には現代を感じさせる語彙も躊躇わずに詠み込んだという。たしかに「ユニクロとミスドとセリア」は百年後には存在しないかもしれない。けれどそれらはどれも現代において、都市生活者にとってそれらは欠かせない、というよりほとんど意識もしないうちに街のなかに溶け込む店ばかりである。

あるいは、「ユニクロとミスドとセリア」は実は地方都市にも揃っている。私の住む山口県宇部市の徒歩圏内にもそれら三つはすべてあり、だからほんとうには、地方にも「ぜんぶある」のである。ということを思えば、「ユニクロとミスドとセリア」のすべてが、都市生活、シティポップをあらわす店というよりも、よりロードサイド寄りの、地方にも浸潤したモチーフであると言えるだろう。

「『ぜんぶあるね』と言いながら行く」。おそらく初めて訪れた場所なのか、ともにその街を歩くふたりがいて、ここ、全部あるじゃんねー、などと言いながら散歩している様子を想像する。そのときの「ぜんぶあるね」とはいったいどのようなニュアンスなのか。(必要な店が)「ぜんぶある」、というより(なくても困らないがあったらいいものが)「ぜんぶある」、というくらいの感じだろうか。不可欠ではないものの、生活のなかであれば助かるし、ふらっと立ち寄ればそれなりにいいものが見つかったりする。ユニクロなど、じっさい買わなくても、試着してみるだけで楽しい。もしそれを「いま」の「豊かさ」と呼ぶのなら、それはあまりにささやかだと思う。そんなんでいいのか、とも思う。地方には「ユニクロとミスドとセリア」がありはするが、それ以外には言ってしまえば特に何もない。都市には「ユニクロとミスドとセリア」以外にも、より「ポップ」なものはいくらでもあるだろう。けれど、それらを見れば「ぜんぶあるね」と頷きあう。降りた駅はより郊外だったのかもしれない。それなら「ぜんぶあるね」は「(こんな郊外にも)全部揃っている」というニュアンスにも読める。けれど、それらが揃っていれば事足りるということであれば、どこに暮らしても生活はこんなにも均されて、「ぜんぶあるね」は同じだけ「ぜんぶない」ことをあらわしてもいるのではないか。「ぜんぶあるね」のもつニュアンスは絶妙で、これでいい、これがいい、どちらも含みながら、どことなく、それでいてそこはかとない空虚な「いま」をありありうつしている。

スーパーが取り壊されたあと残る空き地は想像よりもひろくて

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