胸のべの丈に咲きたるあぢさゐの毬のおもたさいきなり信ず

小池光『バルサの翼』(※引用は『小池光歌集』現代短歌文庫7、砂子屋書房)

初夏を通り越してときおり訪れる真夏のような日差しを訝しみながら、それでもこうして梅雨は来て雨をよろこぶ紫陽花がようやく目に入る。寒色のグラデーションがうつくしく、梅雨の楽しみといえば紫陽花しかない、というのは過言としても、やはり梅雨といえば紫陽花であるとつくづく思う。ふと紫陽花の存在に気づく頃にはもうどこもかしこも植木にぼこぼこ咲いて、ここにもあそこにも、紫陽花の色の移り変わりとは土の性質が酸性、アルカリ性の違いによるものだと聞いたことはあるが、とにかく紫陽花のグラデーションは見ていて見飽きることはない。

立派なものであれば「胸のべの丈」まで咲いているものもたしかにあって、一房ずつの大きさはちょうど毬のようであると合点がいく。じっさいその一房をもいで手にしてみれば、重たいという実感があるかどうかは知らない。そんな重みを感じるかどうかは定かではないけれど、紫陽花の一房というのは、目にいかにも重い。「おもたさ」とあらわされる重量を感じながら、それを「いきなり信ず」という。それもなんというか、妙に説得される、納得するのはどうしてか。思うに、手にすることはなく、ただ(持ってみるならどのくらいか、毬くらいか)と想像のなかではかってみるときにこそ、その頭のなかで紫陽花の一房はいま重みを得るのではないか。あるいはまた、雨の露に濡れてこそ、その一房はいよいよ重い。

あぢさゐの素枯れあふるる暗がりへみどりごの父帰り来たれり

時を経て、紫陽花というものは長く枯れたままでも花を落とさずそこに残りつづけるものだけれど、「素枯れ」の紫陽花というものは、もはや一房ずつの重みもなく、一群として背景のなかにあるのみである。生垣の一群を「あふるる暗がり」のなか、生まれたばかりの子の待つ家へと帰りゆく。みどりごのもとへ、ではなく「みどりごの父」とあくまで自らに焦点を合わせている。「素枯れあふるる暗がり」と対照的に生の、意思の躍動をともなって、家へと足を運ぶ。枯れ紫陽花をそこへ置き去りにしたまま、季節は夏へと、ぐんぐん生気を増してゆくのは紫陽花とは別の夏のの草花、そして何より生命を伸ばすばかりの「みどりご」であるほかない。

廃駅をくさあぢさゐの花占めてただ歳月はまぶしかりけり(『廃駅』)

小池光の紫陽花の歌といえばあまりに有名な一首だが、思えば挙げた三首とも、表記は漢字ではなく「あぢさゐ」であり、旧かなを含む一字ずつがまさに丸みをもった重たげな紫陽花ひと房のように見えてくる。紫陽花と「時間」はあまりに相性がいい。あんなにもうつくしく咲く色のグラデーションを、ほんのわずかの時間でセピア色に咲き枯れて、時間が止まったように長くそこにとどまっている。まるで過たず時間そのものを見せられるような紫陽花の存在に埋もれるように「廃駅」はある。大仰でなく、「ただ」淡々とあるからこそ過ぎた時間はまぶしく、いま目に映る「あぢさゐのおもたさ」をいきなり信じることができるのではないか。

花影と花とまじはる水のうへやうやう過ぎし日日はかがやく

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