貝柱のみの姿に売られゐるほたて貝その簡潔な死よ

千葉優作『anchorage』2026年

歌集に、

傷ひとつなきピーマンを選ぶとき選ぶ側なる安心にゐる

という歌がある。作者は見ているものと見られるものの両方を行き来する感覚があるようだ。結句「安心にゐる」がなかなか言えない名句である。他者と自分の境界がはっきりとしているから両方への意識を想像できる。節度のある想像力が発揮されていると思う。歌人のタイプには、見る物に思いを寄せて物と一体となる受容優位の「直感派」と距離を取って物を観察する「知性派」があると思う。千葉の場合は知性派寄りの歌が多い印象がある。梶原さい子、花山多佳子といった「塔」のなかでも写実の名手として知られる歌人の系譜に連なる、王道をゆくような歌風を千葉からは感じる。

題にあげた歌では、貝殻や内臓が取り除かれてトレイの上に置かれているホタテの貝柱を見て「簡潔な死よ」という。作者はホタテに注目している。なぜか。スーパーの生鮮食品コーナーに行けばカツオの刺身や豚ロースでも同じようにパッケージに書かれた可食部位以外の部分はきれいに除かれて陳列されていると思う。生魚コーナーに行けば当然ホタテの貝柱がある(最近はタイラギも増えた)。なのでおそらく「貝柱のみの姿に売られゐるほたて貝」というのは何度も見ている光景のはずで、それがあるとき突然歌にしなければならない衝迫に駆られてしまったのだろう。普段とは異なる記号性が貝柱に宿る。「その簡潔な死よ」の「その」は作者の死の記憶・イメージにホタテ貝が加わったことを示すのではないか。いくつもの「死」があるから、他の「死」と区別をするために「簡潔な」という状況把握をつけて「死」を導き出す。

あかつき薄明はくめいに死をおもふことあり除外例なき死といへるもの
/斎藤茂吉『つきかげ』

茂吉の有名な歌にある「除外例なき死」とは反対に、千葉は「死」から自分を除外しようとしていないか。境界意識の強い作者が「死」を対象化する。自らに匂う「死」の香りを自分の体から切り離すために、心の防衛機制としてツヤツヤとした貝柱が「死」の投影先に選ばれたのではないか。「貝柱のみの姿」には「死」の姿でありながら薄切りの肉とはまったく異なる手付かずの美しさがある。貝ひもや内臓を外すときは、貝柱を傷つけないように注意する。他の生き物とは異なる食材になるためのフローがあるのだ。千葉が感じたのは「死」の美しさではないか。貝殻の表面はゴツゴツとして海藻やフジツボがついている。それに比べると貝柱は洗練されたフォルムをしている。「選ぶ側」に立つ意識を強めて、見るもの/見られるものの境界を超えてこないように線をひく。「死よ」最後の呼びかけによって「死」の引き剥がしは達成される。

ストーブに背中を向けて座りをり飼ひならされたほのほにあれば

吹きあがるのみの蒸気を見てゐたり炊飯器にも性欲はある

感性と知性の間にあるような歌を引いてみた。「飼ひならされたほのほ」「炊飯器にも性欲はある」見ている物に対して自分との共通点を見出す。こういったところは受容優位の感性派の感覚があるが、千葉の場合はストーブの炎に背中を向けるというように対象と自分の間にあらかじめ線が引かれているのだ。感性のフィルターを通った言葉が歌になって現れる際に、知性による線引きが走る。

何が千葉に線を引かせるのか。徹底的な内省の跡だと思うのだが、はっきりとはわからない。千葉なりの節度、美意識があるのは確かである。

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