石見の海角の浦廻を吹きわたる風にこさへむ電気ゆかしも

寺井淳『埒にいる鳥』(砂子屋書房)

前々回(6月9日付)嶋さんのクオリアで柿本人麻呂が引かれていたので、石見相聞歌の本歌取りといえば、と掲出歌を引いた。去年、一昨年と萩・石見空港で開かれる「空港歌会」に参加したこともあり、歌に詠まれた風車をじっさい見たことはないのだが、空港からの海を臨んで、見晴かす空の平らかさ、青さを心地よいものとしていまもありあり思い起こすことができる。

石見の海には風力発電の風車がずらりと並ぶという。昔から、巨大な建物に対する恐怖心があるのだが(東京タワーや大仏など)なぜだか風車にはそのような怖さがさほどない。大きすぎることを疑う余地がないというのか、そりゃ風を回してエネルギーを起こすのだから大きいに決まってる、と思うからなのか、またそれが動きつづける有機的な装置である、と思えばこそ、そこに変な恐れは湧いてはこないのかもしれない。巨きな羽が風を回す。人麻呂が何度も振り返って思いを馳せたはずの石見の海には風がわたり、わたる風をいまも風車が回す。巨大なそれが回すのは、風と、吹きつづけた時間そのものであると思う。風を回すことは時間を回すこと。人があり、人がいれば交わされる声があり思いがあり、そしてもとからそこには風があったのだと、目にしたことはないがその巨大な風車を頼もしく見つめたくなる。

また、先日の嶋さんのクオリアには最後にこのようにある。少し長いが引用する。

短歌をよんで鑑賞文を書くというのは、長歌の幻について語るようなものだと思う。読者それぞれが、幻の長歌を感じ取って思い思いに語る。短歌を詠むとは、長歌からの照射なしに、短歌を自分の言葉として発してみることだと思う。すでに自分の中にある長歌的なもの、蓄積されたごく個人的な経験が〈歌〉の光源になる。短歌はみな反歌であるともいえる。ただ長歌は省略されて目に見えないから、読者が自分で長歌を想像するしかない。読者の数だけ長歌の幻は増えてゆく。それがクオリアなのだ。

「読者それぞれが、幻の長歌を感じ取」る、「短歌を詠むとは、長歌からの照射なしに、短歌を自分の言葉として発してみること」である。私のなかにもすでに長歌的なものはあるだろうか。見聞きしたこと、無意識に育ったもの、すべて個人のうちに折り重なった芥のようなものさえ、いやむしろそのようなものが私をつくり、私でない人の歌を読ませているのだとしたら。書くことも、書きつなぐことも、到底ひとりきりでは心許なくまた頼りないが、「読者の数だけ長歌の幻は増えてゆく」のであれば、その重なりというのは、あるいはとても有機的なものであるようにも思う。客観性や論理を前に、主観や感覚というものはどうにも弱く脆い。けれど頼りなさとどこか引き換えに、相互的な交歓によって紡がれていくものであると同時に思いもする。当たり前だが、生きているから読めるし書ける。詠んで読んだことをまた歌にして、あるいは鑑賞する。幻の長歌、長歌の幻を想像し、たどりながら、その呼応のうちにこそわれわれはあるのだから。

人のみが美しといふ里山の棚田の面をくすぐる風は

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