塩の小瓶しづかに置けば卓上に真白き丘の切り取られたる

濱松哲朗『翅ある人の音楽』2023年

塩のボトルをテーブルの上に置く。ボトルを傾けて適量の塩を振りかけた後であるから、ボトルの中の塩は完全な水平にはならず、少し斜めに傾斜のついた状態で収まっている。その様子を「真白き丘」に見立てるまでは平凡なのだけれど、結句の「切り取られたる」によってこの歌は秀歌に至る。

「たる」の連体形の終え方がとてもいい。

塩の小瓶しづかに置けば卓上に真白き丘の切り取られた(改作)

「たり」で言い切ると「置けば」「切り取られたり」という文章になる。みょうに理屈っぽくなるのがわかるだろう。「ば」の持つ順接の確定条件の力によって、当然であるかのように「切り取られる」様子が詠われる。「私は塩を『真白き丘』に見立てましたよ。さぁどうですか。」とでもいうようである。たった1文字の活用の違いだがこれだけでアク入ってしまって歌の味わいが落ちる。

原作は、落ち着いた動作の中で思いがけなく「真白き丘」を見つけてしまった瞬間を言葉に封じ込めているのだ。何度読んでも新鮮な感覚を感じる。具体的な場面を想像するなら、朝のルーティーンで目玉焼きを焼いていつも通りさっと塩と胡椒を振ってさぁ食べようという時に、今しがたテーブルに置いた塩のボトルに急にピントが合ってしまい、目線を動かせなくなってしまったのではないか。ボトルは手で持ち上げて簡単に動かすことができる。テーブルの上に置いて手を離した瞬間に、今見えている風景にボトルがぴたりと貼りついて自分の周囲が一枚の大きな絵のように感じられる。自分以外が全て動かし難いものであるかのような圧倒的な閉塞感に困惑する意識が「切り取られ」の後に続く言葉を終止形の言い切りを選ばずに連体形にとどめているのではないか。

「たる」は結果継続・完了の「たり」の連体形。この歌においては「思いがけなく切り取られてしまったように感じた」というニュアンスを読み取れる。ミラティヴィティ(探索意識のない発見)を含むこの感覚に近いのは「けり」だ。*

「けり」による発見は,気づいたことについての意外性と驚きを伴うことが多く,この心的状態を指してしばしば「詠嘆」と呼ばれてきた。

物思(おも)ふと 隠(こも)らひ居(お)りて 今日(けふ)見れば 春日(かすが)の山は 色づきにけり
(万葉集・巻10・2199番)

/小柳智一(定延利之編著『日本語学と通言語的研究との対話─テンス・アスペクト・ムード研究を通して─』p.69)

考え事をして何日か家にこもっていて、久しぶりに山を見たら黄葉していた。家にこもっているのは〈私〉で、景色を見たのも〈私〉。濱松の歌と同じく動作と景色の認識主体は一人の〈私〉である。もっとも、万葉の時代は文字よりも声の口伝で歌が伝えられることも多かったであろう。声で歌を伝えるときというのは作者名は省略されがちである。作者名を歌う習慣があったら詠み人知らずの歌はもっと少ないはずだ。

塩の小瓶しづかに置けば卓上に真白き丘の切り取られけり(改作)

しかし「けり」では「丘」が大きすぎる。終止形で文章がまとまってしまうと歌後半の見立てが強くなるようだ。とすると濱松の歌の連体形「たる」の特異な効果は、文章がまだ途中であるかのうように言い差しをして認識の焦点をぼやかすところにあるのではないか。それによって、まだ言葉にまとまらないがひとまず言ってみようとする作者の体験をなぞるように、読者は作中の〈私〉と一体になって言語化の過程を追体験できる気がする。迫力のある「たる」なのだ。

「けり」は「にけり」「ざりけり」のように助動詞を伴うほうがなじみのある形で収まりがよい(「けり」単体には詠嘆がないとする説もある)。受け身の「り」に「けり」をつける用例は思いつかなかった。万葉集の歌の「けり」はあんまり深刻さがない。自分のことなのに伝聞風のすっとぼけをかましているように見える。歌がそもそも作者名を必要としないものだからだろう。歌という他者に詠まれることを前提とした記録の形式は、宿命として伝聞のニュアンスを得やすいのだろう。

俺のことはほつといてくれと独り言つ 菓子パンはカロリーの塊である

たましひの速度に朽ちてあぢさゐの花曇天に錘のごとし

非正規で生きのびながら窓といふ窓を時をり磨いたりする

これ以上ここには居られないやうで紙コップ手につぶして帰る

作者が歌集を通して伝えたいメッセージは「侵犯するな」だろうか。「ほつといてくれ」は直截に、「窓といふ窓を時をり磨いたりする」は境界の暗喩として読める。心地よい距離感を破って境界に入ってくるものへの強い非難、その裏返しとして作者自身も相手に不用意に踏み込まないように、すでにそこにあるものに敬意を払って接しようとする。錘のように浮かぶ紫陽花の花に思いを寄せる。

「たる」は境界のセンサーが働きっぱなしで心が疲労している反動なのではないか。「切り取られたる」というとき、卓上のボトルのガラスの部分、厚さにして数ミリの境界線は消え去る。むきだしの塩の丘がいまにもサラサラと崩れてしまいそうに感じる瞬間、心が限界を迎えるギリギリの瞬間をなんとか理性でもちこたえている心の状態が伝わるのが「たる」なのではないかと思った。

 

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