どこでしてもどのようにしても放尿のはじめに「しかし」と思いませんか

高柳蕗子『雑霊のシナプス』(左右社)

歌に問いかけられている。しかもこの歌にこうして問いかけられなければ一度も考えずに死んだかもしれないような問いである。用を足すときにはだいたい何も考えていないことがほとんどで、むしろつかの間「無」になるための時間であるような気もする。個室に入り、戸の鍵を閉めてから尻を出し放尿する。ただ、私はこの歌の問いかけを知ってしまった。そう訊かれると、たしかに。いやどうだろうか、そんなふうに思うだろうか。たとえば「どこでしてもどのようにしても」という条件が、駅でも、初めて訪れる誰かの家でも、深夜の居酒屋の汚い便座でも、あるいはどのように、という状況で言うなら切羽詰まったときや、熱が出たときの尿はなまあたたかく、あまりに寒い日のおしっこからは湯気が出る、思えばさまざまな場と状況下において日々放尿して、しつづけている。そのことをこうして思ってみることがまず滑稽で、それに加えて「『しかし』と思いませんか」である。「しかし」とはどのようなニュアンスだろう。

ポイントは「放尿のはじめに」という表現かもしれない。身体の構造の違いによって尿の出方はもちろん異なるが、なんとなく初めはちょろちょろと出てくる。このちょろちょろと出始める際の尿に(……何を、私は書いているのだろう)「しかし」という感じはおそらくある。変だから。滑稽で、どんな人も同じようにちょろちょろ放尿し始めている。いや、なんだ、いやしかし。なんなんだろうな、と放尿しながら我に返ることはなかったけれど、問いかけられたらもうなんだか脱力して笑うしかないような、そこには人間という生物自体への「あんたら変だよね」というようなゆるしがあるような気がする。

島田さんの後ろ姿と後ろ姿の島田さん 呼べば振り返るのは?

また問いかけられている。なぞなぞのようだ。「島田さんの後ろ姿」と「後ろ姿の島田さん」の違いがわからない。たとえば(またもとても尾籠ながら)うんこ味のカレーとカレー味のうんこどちらがマシか、というネタであれば、あれはまったく異なるものだから明快だ。だが、「島田さんの後ろ姿」と「後ろ姿の島田さん」は、どう考えても同じに思われる。だってそれはどちらも同じ「島田さん」なのだし、だからどちらに向かって声をかけても、「島田さん」は振り向くだろう、と考えるとき、すでに「島田さん」はふたり存在している。あれっ。どっちが本物の島田さん? と慌てふためく姿を、高柳蕗子は笑って見ているような気がする。そのときいったい高柳蕗子はどこにいるのだろう。

空という股間より「フォー、イグザンポー」とつぶやきながら生まれ落ちる

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です