菅野朝子『花巡る』2026年
死ぬほどじゃ/ないけど好きと/いう感情を/蟹喰うごとく/持てあましおり
57777
三句七音の「いう感情を」に驚く。
「いう感情を」の句末の「を」に詠嘆の力を感じる。
歌を上から順に読んでいくとして「死ぬほどじゃないけど好きと」まで読むと、言葉が指す内容がどんな状態なのか考えてみたくなるモードに入る。三句以降に具体的な内容が現れると期待するのだが、この歌はどうもうまく読めない。言っていることはわかるのだが何を言っているのかわからない。
三句に何かあるようだ。
句切れなしで二句まで進んだ場合、その後の三句の五音は下の句の展開に向けて力を溜めるために軽く収束させるのが収まりがいい。しかしこの歌の三句「いう感情を」字余りの七音のリズムは収束をせずに膨張していく感覚がある。大きな波を起こして初句二句の言葉がなんであったか、頭の中からすっきりと洗い流ししてしまう。後に残るのは「感情」の一語だけだ。初句二句に大きな感情の塊の影が確かにあったはずだが、「感情」の語に飲み込まれて「感情」の語の響きだけが頭の中にこだまするのだ。それゆえに初読時に一番強く残る歌の印象は「蟹」となる。「蟹」のあとに、わずかに残った「死ぬほどじゃないけど好き」の余韻を味わうことになる。
「死ぬほどじゃないけど好き」という心の状態を「蟹喰うごとく持てあましおり」と直喩でたとえる。蟹を食べるには時間がかかる。脚の殻を折って裂いたり、爪の中の身をほじくり出したり、一匹丸ごとを完璧に食べれたと思ったことがない。胴体の白い身の部分をすっかり食べるのは難しいし、どこまで食べれば十分食べたといえるのかわからない。小さな蟹となるとなおさらで、蟹が丸ごと入った味噌汁を食べるときなど人目を気にして食べずに置くけれど、気持ちとしてはすみずみまで食べたいのだ。持て余す感覚を「感情」にたとえると、「死ぬほどじゃないけど好き」というのは「好きすぎて相手のことしか考えられない状態」で「いっそ死んでしまいたい」ということだろうか。行き場のない気持ちの向き先を「死」に向ける欲求はわかる気がする。
このごろは長生きしてもいいかなと思うほど気持ちが落ち着いていて、人間に過剰な期待をしないようになってきた。人間は言葉を交わせるから言葉によって相手に何かしら影響を及ぼせると思っていたが、実際は天気のようなもの、年齢を経てゆけばみな天気に近づいていくのだと思う。雲に向かって話しかけてもどうしようもない。ただ動いていくばかりである。雲のような手で触れがたい制御不能な存在に惹かれてしまったら、心を穏やかに保つのは難しい。期待が永遠に叶わないかもしれない、未来にわたる悲しみの総量が無限に感じられる時に「死」は影を深めて足下に現れる。「死ぬほどじゃない」は悲しみの重圧に持ち堪える自分を客観的に捉える言葉だと思う。
「という感情を」はたくさんの感情のバリエーションの中から今一番強く感じるものを一つ選んだという限定のニュアンスの語りではないか。そしてそれは作者にとっては「こんな感情もある」というような例外を出してみせる手つきに見える。
ああ君をふかく睡らすためにきるトルファンの青 風も睡らな
せいねんの唇きよらかに結ばせて ああずんずんと全山が雪
春の空の砂に睡っているような男へ……じがばちの接吻を
河ゆ昏るる秋の街なりきみと来てきみにまつわる妻と子の脚
トルファン(吐魯番)市は新疆ウイグル自治区の街。「西遊記」で孫悟空が鉄扇公主と戦った火焔山のモデルとなった山があることで知られる。極度の乾燥地帯で朝晩の寒暖差が激しく雨が少ない。雪解け水が豊富で地下水路を通して水を巡らせており広大な葡萄畑がいくつもあるという。ひらがなの「きる」が何かはわからない。青色を服を着るのか、青色のアンプルの先端を切るのか、わからないが「君」を睡らせて無防備にさせるために行動する。支配欲が詩に昇華されている。「じがばちの接吻」ジガバチは蛾の幼虫に卵を産みつける。男性の相手に口づけによって〈卵〉を産みつける。作者が直接的な性交の描写ではなく唇に執着を見せるのは、唇が性別に関わらず同じような形/機能を持っているからだろう。身体的な非対称性を超えた相手との交わりの象徴として唇が選ばれているのではないか。
ぷらたなす千のてのひらひるがえりそのしろがねの千のさよなら
