足首がベロベロなんだ幸せの方がこっちに歩いてこいよ

三田三郎『精神はもっと猫背』(堀之内出版)

「足首がベロベロ」ってどういうことなんだろう。こわいなぁ、と思う。こわいなぁというのはその状況のわからなさに対する怖さで、だっていきなり「足首がベロベロなんだ」って話しかけられるなんて、げに恐ろしい。いや、たぶん酔っ払っているのだろうということはわかる。でも「ベロベロ」なのは足首ではなく、主体自身だろうと思う。それとも、怪我などして足首の皮がベロベロに剥けてしまったのだろうか。それはそれで危ない。主体には近づかないほうが無難、という気がしてじわじわと面白い。

異常者が酔って別種の異常者へ変わる途中に一瞬の正気

という歌が掲出歌の直前にあって、たしかに「足首がベロベロ」なことは怖いけれど、ともかく自分からは動けない状態なのだから「幸せの方がこっちに歩いて来いよ」と要求するのは、まともな感じがする。というより、歌の私は酔いの、その酩酊のなかにいまあるのではないのだから、なんというか、素面でこのような歌を詠んでいるということが、一番こわいかもしれない。

普通じゃない家に生まれて普通じゃないことになるのは普通のことだ

普通、まとも、異常、並べた言葉の状態の、自分はいったいどこに置かれているのか。たとえばふだんまともに見えていた人が、ひとたび酔えば言動が荒く、場合によって「異常者」に思えることがあるかもしれない。酔って本性が顕になる、とはよく言うことだが、はたしてそれは本当だろうか、と思う。それは全然、むしろまともなのではないか。たとえ元が「異常者」であったとしても、酔いによってそれは見えなくなる、そう思っている方がなんというか、まともではないようにも感じられる。「異常者が酔って別種の異常者へ変わる」というのはそのどちらでもなく、けれど傍目にはやはりいまいったいどの状態なのかはわからないのだと思う。ともかく、普段「普通」に過ごせているのなら、それはちゃんと「まとも」なのだと胸を張っていいはずだ。けれど私はまとも、私は普通、と思うよすがとはなんなのか。たいていは自分の家のなかのことしか知らないから、それが「普通」と思っているけれど、外に出てみればもしかしたら「普通」じゃなかったのかも、と思う。いやうちなんて、ごく「普通」の家だよ、家族だよ。「普通」の入れ子構造のなかにそれぞれの家があり、家族がある。持ち寄った普通のバリエーションはあまりにばらばらでちぐはぐだ。

入口の数だけ出口もあるという詭弁のように秋風は吹く

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