緋縅(ひおどし)のよろひをつけて太刀はきて見ばやとぞ思ふ山ざくら花

落合直文(明治25年)

※筑摩書房の『現代短歌全集 第1巻』では「思ふ」の表記は「おもふ」だが「もふ」で読んだほうが気持ち良いのでこの文章内では「もふ」として鑑賞する。

雲の上で雨に打たれているような酔い方だった それでもよかった

6月30日の回では句の頭・句末の音のリズムを中心に歌を読んでみた。近代短歌でも同じようにリズムを鑑賞できるか試そうと思い、なるべく古い歌を探してみた。

緋縅ひおどしのよろひをつけて太刀はきて見ばやとぞ思ふ山ざくら花

「はきて」は腰に刀を吊るす「佩く(はく)」の連用形+「て」。赤い甲冑と白い桜の花の対比がいかにも古風で、とうに廃れてしまった武士を詠むというのは、歌が詠まれた明治時代当時でも古めかしい内容だったと思う。武士が活躍していた時代を懐かしむ歌において「山ざくら花」はどんな意味があるのか。四季の巡りを見ると、どれだけ人間の歴史が変わっていっても変わらない自然のサイクルがそこにある。うつろいながらループする不易流行の感覚を感じる……というように内容を読むことはできるのだが、この歌はとにかく「山ざくら花」に至るまでの韻律が素晴らしい。

二句から四句に渡る句末の音の展開に注目したい。

よろひをつけ【て】太刀はき【て】見ばやとぞ思【ふ】

「つけて」→「はきて」の3音のリズムと句末の「て」の繰り返しが、歌を盛り上げる。期待が高まったところで「見ばやとぞおもふ」で一体に何をみているのか、読者にさらに展開を期待させる。「て」→「て」のあとの「ふ」には〈落ち着き〉を感じる。そして最後に「山ざくら花」である。三句まではアイアンマンが金属のスーツを纏うように、自分の体に鎧と刀を乗せていき、四句で武士の姿となった新しい〈私〉が情を述べる。結句では自分の体への目線がなくなって歌全体が「山ざくら花」に集約されていく。

音数の展開にも注目したい。二音の言葉がきびきびとしたリズムを作っている。「緋縅のよろひをつけて」のゆったりとした流れがあって、三句から歌の調子が変わっている。「太刀」はきて見ばや「とぞ」「思ふ」「山」ざくら「花」と結句に向けて二音の連なりがバシバシと続いていて気持ち良い。「山ざくら花」には緊張感がある。

読み方を意味派/韻律派/テクスチャ派に分けると、韻律派の読み方が強かったことに気づいたので他の読み方も試してみる。

内容を読めば、いにしえの武士の姿をした〈作者〉と「山ざくら花」の組み合わせが保守的なナショナリストの作者を連想させる。韻律に集中して読んだ時の印象はどうか。今まさに咲いている「山ざくら花」に対して、もう2度と復活することがない武士の姿をしている〈私〉。「山ざくら花」は命に満ちた新しさがある。体言止めによって、四句まで見えていた〈私〉は「山ざくら花」に包まれて見えなくなってしまう。赤い甲冑と白い桜は単純な対比では読めない。二つの間には死者と生者の関係、季節の巡りがあらゆる死を飲み込んでいく感覚がある。

テクスチャ派で読むなら、「山さくら花」を拾うのが良さそうだ。意味的あるいは文章的に浮いた短い言葉のまとまりがあるとテクスチャで読みやすい。「思う」で一度切れる(「ぞ」+「思ふ」は係結びなので連体形で止まる)ので「山さくら花」は文章の中で浮きやすいだろう。「緋縅」は助詞が後ろにつくのでテクスチャは読みにくい。「山さくら花」をテクスチャで読むと古い日本の象徴といった歴史的な意味は薄くなって「和風」にデフォルメされる。鎧を着たり刀を吊るすといった表面的な装いで武士に近づこうとする考え方は今で言えばコスプレ的な思考に思える。あえて内容の切実さを減らしていくと、意味から解放された純粋な満開の桜のイメージに没入できる。韻律派の読みと近い感触になるだろうか。

句末の「て」のリフレインを外してみると〈私〉が桜の花に包まれる感じがしなくなる。

(作例1)緋縅のよろひをまとひ太刀はきて見ばやとぞ思ふ山ざくら花

(作例2)緋縅のよろひと黒き太刀はきて見ばやとぞ思ふ山ざくら花

( 原作 )緋縅のよろひをつけて太刀はきて見ばやとぞ思ふ山ざくら花

原作には三句の後に力をためて「見ばやとぞ思ふ」に向かう感覚がある。「て」が連続しないと二句・三句のまとまりが薄くなり、すんなりと「見ばやとぞ思ふ」に入っていく。

同じような二句・三句をまとめて四句を印象付ける効果があるリズムを持つ歌が、『万葉集』額田王の歌にもある。

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

この歌の「紫野行【き】標野行【き】」の「き」の連続する展開は、四句の「野守は見ずや」を強く印象に残す。

直文の「見ばやとぞ思ふ」額田王の「野守は見ずや」はどちらも詠嘆の記号を含んでいる。重要だと思うのは、四句に詠嘆の助動詞をつけるにふさわしい展開が二句・三句から用意されている点である。

句末の音のリフレインがあると「紫野行き標野行き」は情景の説明よりも音の手触りの方が前景化してくる。内容はただ「野原をゆく」というだけで、韻律に乗せるのに適した言葉を選んでいるようだ。そう思うと枕詞「あかねさす」の意味のない言葉も韻律を整えるための語に見える。「す」の音はこの歌の主題である「野守は見ずや」「ず」と響きあっている。

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