「近くに川があるのですか」と訪れた人のことばに流れ出す川

岡野はるみ『朱色の点描』(現代短歌社)

じっさいほんとうにその近くに川があるのかどうか、わからない。やってきた人との会話で、この辺りには川があるのかどうか、問われている。問われて初めて流れる川、ということを思えばやはりほんとうには、その辺りに川はないのかもしれない。その人の言葉によって初めて「流れ出す川」は美しいなと思う。いまありありと、歌の私に流れ出す一本のささやかな川。あるいは川の有無を問うた人のなかにもあらかじめ川は流れていたと思えばふたりのなかにのみ流れる川がいっときあり、その想像上の川はささやかでありながら、どうしても豊かである。似たようなことはままあって、たとえば人と兄弟の話になった時に「お兄さんとかいそうですよね」などと言われればたちまちに、私には優しい兄がいたように錯覚してしまう。いますいます、いまは遠いんですけど、昔は仲良かったんですよ。やさしくて、私にはどうも甘くて。

掬っても湯に戻る月 許せない相手の名前とっくに忘れて

開くまで美しい夢見ていたか日傘が売り場で目を覚ます夏

湯に映る月、温泉か何かだろうか。妙にはっきりとした色味の月の日があって、それがたとえば湯に映る。なんとなしに掬う仕草で、揺れる湯面に月は歪み、実体ではない歪んだ月から下の句のもの思いは自然に託されているように思う。憎む相手の名前はとうに忘れても、許せないことはくっきり覚えている。相手という実態を離れながら、出来事自体はおりおり、私を掠めて、湯に映る月のように惑うこともあるのかもしれない。

手に取るものの手触りやその実感というのは、思えば心許なく、ここにない川や掬う湯面の月の濁りにこそ何かはあらわれる、とこれらの歌を読みながら思う。冷房のよく効いたデパートの日傘売り場に並ぶ、まだ一度も開かれていない日傘たちは、開かれるのを待ちながら夢を見ているらしい。売り物のあまりにきれいに畳まれた傘を開くときの、一度きりの行為のことをいまやっと思い起こして、そのとき必ず兆すほんのわずかの罪悪感は、日傘を夢から起こしてしまったことへのものなのだと、やっと合点する。

スイトピーの蔓のさみどりゆれながらきょうの一日の長さをのびる

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