でもまだだ|急に|恐竜|な 食事は|頬から、頬が|笑い|入浴

瀬戸夏子『そのなかに心臓をつくって住みなさい』2012年

すべてが可能なわたしたちの家で これが標準のサイズ
二種の裏切り、他になにもない朝の音楽に
もう何リットルかわからないけれど、生きているかぎりは優しくするから
あなたが日本人だとしてもわたしたちにはまるで関係ないって
用事がなくてもコートは羽織っていいし、可能性が避ける道をとおって
なにもかけていないスパゲティのような体臭で
後ろで色がなんども変化するのがわかる勇気があるから
でもまだだ それは急に それは値段がついていなくて、恐竜の緻密な漫画に挟まれて
苦手なこともわたしたちにまかせてほしいな 食事はしたこと、ありますよね
神経の構造を盗む頬から、頬がどんどんうまれて
笑いながら レモンを搾られた雲が上着の上を滑る 行く手を
狙う エンジンに触れる、入浴をすることも
(「すべてが可能なわたしたちの家で」より)

冒頭の一連を引いた。ここから太字の文字だけを抜き出してみると、

でもまだだ|急に|恐竜|な 食事は|頬から、頬が|笑い|入浴

となる。「でもまだだ急に恐竜」を初句二句で読むとほぼ定型の短歌が出来上がる。「頬から、頬が笑い入浴」は定型の下の句のリズムにはまる。三句にあたる「な 食事は」の「は」の字余りがなければ57577にぴたりとはまる。何も意図もなく太字が定型のリズムにはまるというのは考えにくい。ランダムに選ばれた文字ではないだろう。歌人が出した、短歌形式の作品を含んだ一冊の本に短歌としての可能性を読まない方が難しい。

この本は歌集である、と思って読まれるのを期待しているはずだ。読者に期待をさせた上で「な 食事は」の字余りが、意図せずに短歌形式になってしまった可能性を匂わせる。短歌を読んでほしいと思いながら、それと同時に短歌ではないとも思われてほしい、そういう歌集なのだとひとまずは理解する。太字以外の大量の言葉が短歌の読みの起こりを妨げる。メタルギアソリッドのチャフ・グレネードが細かい金属片を拡散させて電波通信を遮断するように、言葉から意味が起こるのを隠そうとする。

大量の文字列を出力して、そこから断片的な文章を選んでセルフコラージュ的に一つの歌を作る。瀬戸は、歌の私性という装置を使って、歌の〈私〉を介して瀬戸自身の短歌が出来上がるまでの流れを追体験させようとしているのではないか。読者は出来上がるのを期待しながら、出来上がらない経験をする。読者はくじかれる。

くじかれながら「すべてが可能なわたしたちの家で」を読み進めていくと、太字を拾っても定型にならない篇があらわれるようになる。そしてあるとき一ページにぎっしりと書かれた文字すべてが太字となった篇に遭遇する。

 わたしたちが雷のようにおちてきた、あたりいちめんの洋服のにおいにあたふたしていたころ、消防車は頻繁にわたしたちのもとにやってきた。消防車はわたしたちに、火事は知りませんか、火事がどちらのほうで発生しているかわかりませんかと、よくたずねたものだった。いつも決まってわたしたちは、ええ、ごめんなさい、ちょっとわかりませんと答え〈……〉

これは歌集で、太字を拾うと短歌形式となるのを知っているから、短歌として読まれることを期待しているはずだ。1文字目の空白が文章が散文であると示す符牒だとしても。期待に答えるならば、この文章を、破調として読めないだろうか。

昼すぎよりおびただしき天道虫がとび出でて廊下にいくつも踏みつぶされぬ
/近藤芳美『早春歌』

2026年現代歌人協会主催公開講座〈比べて分かる/並べて分かる 時代を映すこのふたり〉第3回 「〈未来〉と〈コスモス〉」近藤芳美×宮柊二を視聴した。佐伯裕子によれば、近藤の破調には〈いらだち〉を読めるという。戦前の植民地時代の朝鮮半島で技術者として現地の住民を「使って」工事を進める支配構造に疑問を持ちながら自分もまた構造にコミットする側に立つ矛盾を想像すると、労働者=おびただしき天道虫のメタファーが読み取れる。それが定型に収まっていないこと、苛立ちながらぶつぶつとつぶやくような文体を作ると佐伯はいう。瀬戸の作品についても大量の文字による破調には〈いらだち〉があるのではないか。短歌にならない、短歌におさまらない〈いらだち〉が、散文と太字の形式で示されているのはないか。

瀬戸の作品の〈私〉にも〈いらだち〉を読める気がする。近藤の思想への評価は、例えば女人短歌会の設立に際して女性だけの会を作るのは時代遅れだと言ってしまうような、今から見れば保守的な部分があり否定/肯定が二重となるが、時代を割り引いたとして、当時としては先進的な思想の持ち主であったと思う。矛盾を抱えた〈私〉を考えるヒントになる文章はあるだろうか。二〇二五年の現代短歌社版に挟んであるB5用紙一枚のエッセイ「二〇一二年のわたしの心臓」に当時の同世代の歌人たちが「みんな死ぬほど穂村弘のことが好きでなんとかそれぞれのやり方で彼を超えようとしていた」と書いてある。穂村弘の『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』に見られる少女の〈私〉は、一見すると従来の私性にとらわれない新しい〈私〉の姿を短歌で示したように思うが、社会的な男性から見た、穂村弘が欲する社会的な女性の姿が、人間のディティールを削がれた形で示されたのは「まみ」である以上、フェミニズムとは反対の、纏足のようなグロテスクな制約を〈私〉に課す側面があると思う。瀬戸は穂村が示したシスターフッドの姿に惹かれつつ、穂村のように人間性を削ぎながら主体像を描くのに徹しきれない葛藤があったのではないか。穂村弘とフェミニズムが瀬戸を引き割いている、と仮定してみる。

ランボーと添寝しているミッフィーの肉棒がさす未来のほう

穂村の歌集タイトルと同じ「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」という題の連作では穂村と区別がつかないレベルで文体をトレースしながら、穂村が触れなかった男性の身体が直接言葉で示される。穂村は「ほむほむ」の偶像を作りながら男性の身体への言及を避けていた。瀬戸は、〈男性歌人〉の穂村が省略した現実世界の暴力を「まみ」の世界に入れることで、省略のやり直しを行い、「まみ」を〈私〉たちのものにしようとしたのではないか。

でもまだだ|急に|恐竜|な 食事は|頬から、頬が|笑い|入浴

「すべてが可能なわたしたちの家で」のタイトルは、〈男性歌人〉中心の歌壇に対する「わたしたち」の、今「すべてが可能ではないと思っている」意識を読み取れる。

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