古澤りつ子『ほどけゆく春』(現代短歌社)
塾講師として生徒たちとかかわる日々がおりおり描かれる。日々仕事などで接する相手の、いったいどこを一番よく目にするかというと、多くは顔であるように自然と思われるけれど、たしかに塾にやって来る生徒たちに対しては、顔と同じくらい、鉛筆やシャーペンを握るその手や指を見る時間が実は多くあるのかもしれない。「手の甲の」傷が「猫の爪痕」によるものであるということは、もちろん初対面では知ることはできず、お互いが知った間柄であって、その上で「その傷はどうしたの」「これは実は猫に引っ掻かれたんです」などというやりとりがなければ知ることはない。ということを思うと、誰かの皮膚に残る傷のことを、わざわざ話題にして「それはどうしたのですか」と訊き、また答えてもらうというやりとりそのものが、なんでもないようでとても親密なことの証であるとあらためて思う。そしてまた、傷が残っているということ自体も実は珍しく、ちょっとした怪我であればたいてい自分さえも気づかないうちに癒えて目立たなくなる。その繰り返しで、誰にも告げずまた問われずに消えた傷が誰にもあって、その身体の変遷みたいなものはその持ち主である自分であっても、思い出せないことのほうがきっと多く、だからこそいっぽうで現在に至るまでに残る深い傷というのは(その言い草自体がすでに比喩としてしか使われないけれど)物語、と呼ぶには大げさだとしても、「ああこれは、」と語ることのできるもの、あるいは簡単にはできない、人には話したくはないもの、どちらもありながら、残っていればそのときの状況もまたいまにまであり続けているということだろう。
だから、「手の甲の猫の爪痕ふかき子」と把握するその手の持ち主と歌の私との間にはそれなりの応酬があり時間があり、その日も意識には上らぬほどに、その手の甲を見やりながら、数学の問題を解く、手から指先、シャーペンの握りの癖、書く文字や数字の個性、書きつける筆圧や音、あるいは消しゴムのかけかた、外部の人間には決してわからないようなささやかな違いさえ、その生徒の個性として、見つめながらひとつの関数の問題の答えを出すまでを、そばで見守っているのだろう。
「新入生募集」の貼り紙「迷い猫探してます」に似る響きあり
