家籠るわれを心配する電話 元気が出たら外出します

沢口芙美「見えざるも良し」(短歌往来2026年9月号)

元気が出る確率は20%くらいだろうか。散文的な下の句からあまり高くない期待を読み取れる。「家籠るわれ」は「家に籠るわれ」から助詞の「に」を省略している。初句は比較的字余りを置きやすい句なので「に」を入れても良い気がする。

【作例】家籠るわれを心配する電話 元気が出たら外出します

しかし「に」を入れると初句の語気が強くなり、家に籠ることに何か特別な感情があるように見える。本当はこもっていたくない、今すぐにでも外に出たいが、そうもいかない。そんな感じのネガティブな心のありようを読んでも良さそうだ。しかし、原作の「に」の省略はそういった安易な読みを避ける。「われ」への関心が低いのだ。「われ」だけでなく電話口の相手への意識もそう強くない感じがする。定型のリズムにかっちりと音を収めることに意識が向いていて、相手の感情を汲み取って反応しようという気持ちがない。それがこの歌に独特の抜け感を作り出し、「元気が出たら外出します」の際立ちをよくしている。「家籠るわれを心配する」まではまだ相手の口調を読み取る読み筋が残っているが、三句末を「電話」で終えると、単なる出来事としての語りのように見える。「われを心配する」が読者に期待させる何か切実な内容や言葉の抑揚といった感情のイメージは「電話」によって断たれる。どこか突き放したような、冷たく乾いた韻律がある。

元気が出たら外出します

〈私〉が電話口で発した言葉かもしれない。しかしそれが「電話」で感情の動きへの意識から逸された後では虚しく響くばかりである。三句の展開によって、下の句の言葉は宛先のない、浮遊した言葉へと変化している。自分に向けて言っている独白的な言葉として読むと、「元気が出たら」というのは、ほぼ出ないことが確定している諦めの気持ちから出ている言葉にも見える。

【作例】家籠るわれを思ひし友の声 元気が出たら外出します

例えばこうすれば声だけを聞いている=電話のような姿が見えない相手との会話があると示せる。声に応えようとして「元気が出たら外出します」という〈私〉が見えるだろう。「電話」は会話の換喩でありつつ、感情のやり取りを削ぐという高度なレトリックがあるように見える。会話の内容よりも、電話で話したという出来事が強く印象に残っているのだろう。

霧動く阿蘇山中を走りゆく見えるもの良し見えざるも良し

目に見えるものがあるときに、同時に見えないものの存在を思う。同じ連作には〈霧のなか浮かぶ身近な面影よ 及川隆彦、岡野弘彦〉や〈今走るは草千里の傍 放牧の牛が一頭霧に浮かび来〉といった歌があり、「もの」の具体例がわかるようになっている。見える/見えないの対照的な関係に人間と牛が代入される。こういった認識のあり方に作者独特の感覚を感じる。

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