阿部真太郎『うなぎのくわんづめ』(角川書店)
4/16の嶋さんのクオリアで〈グッモーニン人生どうでも飯田橋人生どうにか鳴門大橋/初谷むい〉が引かれていたが、掲出歌にも似た感じがある。「人生どうでも飯田橋」は日常においてはちょっと寒めのギャグであるけれど、歌に置かれて、ほかの語や音と重なることで「同じ言葉でも日常の場で目にするよりももっと強烈に言葉のこまかな響きや全体の調べを感じ取ろうとする。」そのようにこのギャグをむしろしみじみと味わうことができる一首であるが、掲出歌はどうだろう。まず、「人生マジ大井町線」という言葉は飯田橋のギャグと似ているようで、たぶんギャグとして機能はしていない。人生マジ大井町線、ってどういう意味なのか、失礼ながら端的にわからない。掛かっている言葉は多分ない。じっと見つめて、「マジ」と「マチ」の音が同じくらいなことにしか気づけない。つまりは、シンプルに「雑踏のひとりのこゑ」であるがゆえに、とくに意味を持たないそれは声なのだろう。そのひとりの声を、主体は聞いた。ざわめきのなかでもその声が入って、それでこうして歌にしているということはそれなりに残っていたのだろう。ギャグであればその意味から(場合によって覚えようと思わなくとも半とらわれるような形で)覚えていてしまうものだけれど、意味もリズムもほとんどないようなこのフレーズを覚えていることが、面白くあるのかもしれない。
もう少しこのフレーズの意味するところを巡らせてみると、ストレートにそのひとの人生は大井町線によって成り立っている、めちゃくちゃ大井町線を利用している、ヘビーユーザーである、そのことへの反芻の叫びなのかもしれない。大井町線は本数がさほど多くないイメージである。溝の口や二子玉川から乗った人たちがこぞって自由が丘で降りて行く、あとは大井町に着くまでをひたすら待つ。そんな印象がある。私はかつて田園都市線ユーザーだったので、渋谷に行きたいのに次の電車が大井町線だと心のなかで(チッ)と思ったりしていた。声の主にとってはその大井町線こそが人生の移動をつなぐ欠かせない路線である、けれど自分の人生ってマジで大井町線だけなの? という逆ギレのような感情、きっと叫んだ本人も忘れている、知らぬ誰かに記憶され、こうして歌になっている、読者である私にその叫びが届いている。
ポイントは冷たい油から揚げること 土井善晴に疑ひはなし
