しつけ糸ほどけるように向日葵が遠いひかりにひらかれてゆく

東直子『青卵』(ちくま文庫)

向日葵のピークはもう過ぎたのだろうか、以前訪れた向日葵畑の一面の向日葵を思い出しながら、向日葵というのは群れて咲く花だと思うけれど、どうにも咲き誇る一面の向日葵畑というのはちょっとした怖さがある。人の背丈か、それ以上に育った大きな頭を擡げている。ぎっしり詰まった種の部分はいかにも重たげで、みな同じ、つまり太陽のほうを向いて、向きながら重みに耐えかねて項垂れている。歌の向日葵も多く咲いているかもしれないが、視点はより引いた遠くから眺めているように感じられた。迫るような向日葵ではなくて、シルエットとしての向日葵を想像する。「しつけ糸」は仮縫いの大きな縫いあとを残しながら、簡単に解くことができて、それがするするとほどけるように、遠く太陽のほうへ、向日葵は顔を上げている。暑さみなぎる真夏の日差し、というより向日葵自身がその日差しを探すような、曇り日のおぼろげな太陽を想像する。向日葵、ひかり、ひらかれて、と「ひ」の音が口から優しく漏れて、歌全体は夢のなかのようなやわらかさを保っている。

昼寝にはさとうさたろう宵寝にはにしだきたろうハムの匂いのフリスビー 飛ぶ

つながりて飛ぶ蜻蛉が泳ぐ子の背中にはつか影を落としぬ

やわらかい腕さしのばす朝の海 帽子を脱いで父が笑った

掲出歌が収められた「うみはこちら」という連作は魅力的な歌が多く、たくさん引きたくなってしまう。一首目は掲出歌の直前に置かれ、不思議な歌である。昼寝と宵寝に並べられる歌人と哲学者。ひらがなで書かれるとなんだかまったく別物のようなふんわりした響きになって、発酵を待つパンの生地のような感覚、といって伝わるのかわからないけれど、下の句はほぼそのまま夢のなかのような心地である。二首、三首目はどちらも映像的というのか、いや静止画のような、絵画のほうが近いかもしれない。つながって飛ぶ蜻蛉が落とすその影のかたち、父の帽子姿はおどけて見えて、被ってそれを脱ぐまでをスローモーションのように想像する。昔日の夏の日の、遠い誰かの記憶の夏、と勝手にセンチメンタルな気持ちいっぱいで繰り返し読んでしまう。もう九月、けれどまだまだ暑い毎日、向日葵は種をいまも溢しつづけているだろうか。

「うみはこちら」と看板をたて半島に盲導犬の骨を納める

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