魚村 晋太郎


からだの中の柊を見てゐるやうな君のまなざし 逢ひたいと言ふ

澤村斉美『夏鴉』(2008年)

柊は、葉の縁に鋸歯のあるよく知られた常緑の低木。その鋸歯に触れると痛いので、ヒイラギの名は、疼(ひいら)ぐ=痛む、から来ている。邪気を払う、と古くから信じられて生垣に使われたり、節分に飾られたりしたのも、そのとげのせいだろう。柊は、とげとげしさの愉だ、と一旦は言っておく。

相手は同年代の、若い男だろう。主人公は相手の腫れ物に触れるようなまなざしから、相手の困惑と、相手が自分に感じているとげしさと読み取る。相手の表情は自分にとって鏡である。恋愛の場面では殊にそうだ。

下句は少しわかりづらい。「君」は目の前にいるのだろうに「逢ひたい」とはどういうことか。例えば職場とか、大勢の集まりの中に二人はいて、男が、二人っきりで逢いたい、と言ったというふうに読んだ。「からだの中の」という表現は少しなまめかしくもあって、今はぎくしゃくしているけれど、二人はもう深い仲であることも伺わせる。

男は主人公の拒否の気配を敏感に感じとりながら、また逢いたい、とか、もっとちゃんと逢おう、とか言っているのだ。男はなんでこんなに往生際が悪いんだろう、と自分の体験に引きつけて冷や汗がでる。が、こういう努力が関係を決定的に悪化させることもあれば、逆に二人の絆をふかめることもある、だろう、と思いたい。

クリスマスに飾るのはセイヨウヒイラギとかクリスマス・ホーリーとかいうモチノキ科の別種だが、東洋の柊はモクセイ科の植物で、11月頃、金木犀ほど強くはないよい香りの白い小さな束花を葉の脇につける。男は主人公に、とげとげしさだけではなく、凛とした美しさも感じているのだろう。そう読むと、一首には若い女性の微妙な矜持も表れている。