田中槐『退屈な器』(2003年)
桜が咲きはじめるのは、卒業の季節。
そして、入学式の校庭にも花は残っていることが多い。
桜の時期は年度の変わり目にあたるので、学生や生徒でなくても、人生の節目とかさなることが多い。
主人公が桜並木を迂回したのは、桜の美しさに気圧されてのことかも知れないし、花見の喧騒を避けるためだったのかも知れない。
けれど、一首からは例えば、人生の節目を迂回する、とか、その節目における祝福の機会をやり過ごすとか、何かの比喩の気配も感じられる。
人はいろいろなものを待つ。
待つ、というのは、短歌のトラディショナルな主題のひとつだ。
告白を待つ、というのはいかにも少女らしい、といったら、少女期への幻想が過ぎると咎められるだろうか。
ただ相手が来るのを待つ場合と違って、告白を待つ場合には、相手が自分に好意を抱いているはずだという期待と、ほんとうにそうだろうかという不安。自意識の微妙なゆれが胸のうちにある。
ひと気のすくない道をえらんで、少女は告白を待つのだろうか。
もっとも、少女のように、という比況になっているので、自意識の揺れを抱く主人公は、すでに少女ではないのだ。
少女期に経験した両親の離婚が、歌集全体に影をおとしている。
桜並木は傷ましい少女期の記憶の象徴かも知れないし、実父との別れがなければあったかも知れない、別の人生への入り口なのかも知れない。
花のトンネルのような並木は、まるでタイム・トンネルのように見えるが、あったかも知れない人生なんて、ほんとうはどこにもなくて、人はひとつだけの人生を歩むしかない。
何回も迂回する、という表現には、そのことを知っている作者の回想の苦さがにじんでいる。