死者に逢ふ、ことだつてある……… 写真帖(アルバム)を繰るやうに街角を曲れば

石井辰彦『詩を弃て去つて』

 

軽やかな歌いぶりに比して、その思いは暗い。作者の心の中にあるアルバムは、あまたの死者の笑顔に飾られているのだろう。写真帖を繰るやうに街角を曲るという比喩は、なんとなく、軽妙な足取りを思わせもする。思い出をたどるように、日々の街角をめぐる。つまり、記憶をたどることは作者にとって、日々繰り返される日常の一つだということだろう。それはすなわち、死者の記憶につながる。毎日街角をよぎるように、毎日毎時、死者の記憶が心をよぎる。

 

  美しい思ひ出? 戦友の死さへ…… 生きて、今、在る、者にとつては

  美しい日は(おごそか)に暮れてゆく…… 奥様が老いてゆくみたいに

  またとない場所だ! 夜會は…… 朱鷺色の過去を構築しなほすための

 

掲出歌と同じ一連「そこに彼女がゐたのだつた」より。戦友、夜會、朱鷺色にはそれぞれ「せんいう」「やくわい」「ときいろ」のルビ。本歌集のテクストのほとんどは朗読用に書かれたもので、表記もその呼吸を意識している。各種引用やエピグラフが多用され、さらに、各短歌は多行詩の一行のようでもあり、連作で一作品として提示される。つまり、ネット上での一首評には適さず、作者の意図に背く点もあるだろうが、この深いニヒリズムをたたえ、吾を含めた人類を悲観する歌々は、現代短歌にあって特筆すべきものだ。石井の歌からは、生きることは死者を死なしめることであるという深い憐憫が感じられる。それはVanity Fairを日々踊り暮らし、老いねばならぬ都会人としての悲しみでもあるかもしれない。だからこそ死者は若く、いつも作者の隣にいる。

 

  絲杉に、塔は、似てゐる。この都市が(薄暮の)墓地に似てゐるからは

  月光が世界を涵す…… 破壊する者の悪意が盈ちるみたいに

 

都市、薄暮、墓地に「まち」「ハクボ」「ボチ」のルビ。月光、涵、盈に「ゲツクワウ」「ひた」「み」のルビ。死を思うことは、日毎に死に近づく都市、世界、人類、そして「私」の、儚い生を見つめることでもある。世界を破壊する絶対の存在者に向き合う、一人の詩人の魂が見える。

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