手品師の右手から出た万国旗がしづかに還りゆく左手よ

石川美南『裏島』

 

澤村さんが9月13日分で『離れ島』を取り上げたので、僕はもう一冊の『裏島』から。

 

何も持ってなかった右手から、するすると引き出される万国旗。鮮やかな手品の一場面だ。その万国旗の紐を手繰り寄せるのが左手。全ての旗が左手に巻き取られた瞬間、旗は消える。この歌、下句を「しづかに左手へ還りゆく」ではなく、「しづかに還りゆく左手よ」とした点が面白い。「左手」を結句に置くことで、「右手」との距離が印象付けられ、万国旗が長々と左右の手の間を渡って行くさまが感じられる。そして、同じく結句に「左手」を置くことで、この歌の核は「万国旗」ではなくむしろ「手」なのだということが示される。つまり、ここに込められた作者の驚きは、突然出現して消えた「万国旗」ではなく、旗をこの世界に呼び出し、さらにあちらの世界へ還らせる「手」にあるのだ。手品師の「手」はこの時、現世と異界とをつなぐ扉である。

 

先に澤村さんが『裏島』のことを、「物語にのせて歌を構成する連作から」成り立つ歌集と書いたように、掲出歌も一連「大熊猫夜間歩行」の一首として書かれている。上野動物園を抜けだし、海へと出かけるパンダのリンリン。そこに行きあった人々や「私」の驚き、リンリンに対する思いなど、様々な意識が飛び交う。その一首であることを思えば、手品師の左右の手の間を旅し、あちらの世界に還ってゆく「万国旗」には、動物園から海までを旅し、その二年後、寿命を終えたあるパンダの一生への思いがあるかもしれない。そうすると、手品師の「手」は、一体何を表すのだろう。まあなんにしろ、用意周到な連作なので、安直な解釈は禁物だ。

 

  この風が止んだらあとは闇ばかり ダフネ・デュ・モーリア、ダフネ・デュ・モーリア

  ガラス戸に無限の桜ちりかかる四月しづかな数学書フェア

  飛ぶ夢を見た罰として永久に地上を走る地下鉄がある

  一心に蛍光灯をはめる手が止まらないのだ秋の夜長を

 

どの歌も不思議な連作中の作品だが、もちろん一首として見事に屹立している。一首目は「鳥」というミステリアスな連作の一首。ダフネ・デュ・モーリアはご存じヒッチコックの映画『鳥』の原作者。二首目は連作「書店員・Ⅰ」から。降りしきる花びらの景に、数学理論の美を思う。三首目は掲出歌と同じ連作。飛べはしないが、地下鉄なのに地下に潜ることもない。そんな状況って、たしかにあるなあ、と思う。最後は「凸凹」という工場見学に材を取った一連から。でも既に歌世界は現実の工場から、夢幻の夜へとずれてしまっている。こうした歌を読むと石川の世界は、世界中の人々の夢や物語を縦横に吸収して生み出されているように思える。読書少女の夢、の風情もあるし、短歌におけるマジックリアリズム、とも呼べるかもしれない。

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