かのときの二月岬の潮風になびきてありしえり巻きのQ

杉崎恒夫『パン屋のパンセ』(2010)

 

歳を取るごとに時の流れが速くなるとは言うけれど、もう2月だなんて本当に信じられない。この1月は、まばたき数回分くらいしかなかったような気がする。この分では、ちょっとぼんやりしているすきに春も夏も秋も過ぎて、あっという間に年末になってしまうのではないか。それは、困る。

 

気を取り直して、2月の出てくる歌を。

「二月岬」とはおそらく造語。1年中、2月のように冷たい風が吹きつける岬なのだろうか。突端は草木も少なく、そそり立つような崖になっているかもしれない。岬の地形までもが思い浮かぶ、広がりのあるネーミングである。

「かのときの」という語り出しは、やや重厚。「かのときの」「二月岬の」「えり巻きの」と「の」を畳みかけ、最後に何が起こるのだろうと期待しながら読み進めていくと、末語の「Q」で軽い肩すかしを食らう。でも、そこがまた心地良い。

そう、「Q」は、潮風になびくえり巻きの形状を表していると同時に、「クエスチョン」の「Q」でもある。「かのとき」とはどんな時だったのか。岬へは誰と行ったのか。そうした細部は、胸元のクエスチョンマークひとつを残して全て消し去られ、あとは読者それぞれの想像にふんわりと委ねられているのである。

 

杉崎恒夫は2009年、90歳で亡くなった。『パン屋のパンセ』に収められているのは、70~80代の頃の作品だが、そこに並んでいるのは、全く年齢を感じさせない、明るく軽快な歌ばかりだ。

 

  しあわせでも不幸でもない街にきて金の小人のせり出す時計

 

幸せな気持ちの人は、街じゅうが幸せそうに見える。悲しみを抱く人には、街じゅうが不幸に見えてしまう。「しあわせでも不幸でもない」と看破できるのは、軽やかな心を持った詩人だけだ。

老いや死をテーマにした歌でも、その文体は変わることがない。

 

  いくつかの死に会ってきたいまだってシュークリームの皮が好きなの

  矢印にみちびかれゆく夜のみち死んだ友とのおかしなゲーム

 

大切な人との死別の後も、ふわふわした「シュークリームの皮」を愛し、葬儀に向かう道のりさえ「死んだ友とのおかしなゲーム」と言い換えてみせる。悲しみをストレートに表現することなく、優しいユーモアに包んで差しだすその姿勢に、私は「品格」という言葉を思い出さずにはいられない。

 

 

追記(20120202):提出歌について、「二月岬」ではなく「かのときの二月/岬の潮風に」と切って読むのではないか、とご意見をいただきました。正直に言うと、そちらの読みは全く想定していなかったので、「なるほどー」と思いました。

確かに、「二月岬」という造語として読むより、「かのときの二月/岬の潮風」の方がシンプルかもしれないですね。なんのためらいもなく「二月岬」と読んでしまったのは、既成の固有名詞(「三月書房」とか)に引きずられてしまった部分もあるかもしれません。

ただ、迷いつつ、私は「二月岬」の方にこだわりたい気持ちもあります。根拠は、意味というよりも韻律でしょうか。「二月/岬」で切ると、「~の」「~の」で畳みかけるリズムが途切れてしまうのと、二句目の句またがりが、なんとなく杉崎さんの韻律とそぐわない感じがするのです。

ご意見ありましたら、ぜひコメントください。

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