現代のイスラム世界のあれこれを考える上で、池内恵(いけうちさとし)の書いたものは参考になることが多い。
この人のバックグラウンドは、たとえば『書物の運命』(文藝春秋,2006)などに少年時代の回想など含めて書かれているけれど、ともかくその読書経験には圧倒される。とくだん自慢の色も見せずに小学生時代にマックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を母方の祖父から強制的に与えられ、文字面をたどったと書いていたりする。
さすがに学問をする環境が違うのだと思わされるが、読めといわれて読んでしまうのだから、たいしたものだ。もっとも「『外国文学』などというものを職種にしている父の元で育ったため、文学は家の中でかなり重たい空気のように(また文字通り生活の糧として)存在していた」とも書いている。ドイツ文学者である父=池内紀よりも、母方の祖父の「理知的なものの見方」に、解放感を感じていたということであり、それが現在のアラブ研究にもつながっているのだろう。
池内は、テロに傾斜するイスラム原理主義に批判的であり、イスラム世界の人々との対話可能性についても懐疑的である。イスラムにもいろいろあるのであって……という反論は当然出てくるけれど、エジプトのカイロにも住居を持ち、イスラム圏の人々との実際のやりとりや、現地の文献も含めて広範な情報収集を基にしたものであるから、発言に重みがある。
イスラム圏の人々との共栄や交流を模索する人も、池内の懐疑論は頭に入れておいたほうがよいだろう。
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その池内の『イスラーム世界の論じ方』(中央公論新社,2008)が、たまたま図書館の展示コーナーに出ていたので手にとってみる。時評的なものを中心にまとめたものであるらしい……と、ぱらぱらとページをめくって、「まえがき」に戻る。こんなことが書いてあった。
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日本語でイスラーム世界を論じられるか。そんな疑問を抱きながら、この本に収めた論考を書いてきた。そもそも、国際社会の権力と政治について論じることのできる言葉と論理を、日本語は持っているのだろうか。
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このあと、「現実として、国際政治をめぐる有意義で影響力のある議論の多くは、英語でなされている」などということも書かれるが、英語ならば、政治的なことを語ることができるとか、英語を使えるようにしようという方向の話ではない。
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中東やイスラーム世界をめぐる英語での議論には、「当事者」の発言としての切迫感があり、深い含意や大きな影響力を持つものが多い。ここでいう「当事者」とは、発言が現地の現実と照合されて検証されるということを、発言する者たちが当然に前提としているということを意味している。「当事者」の発言は、対象となる現実に影響を及ぼす可能性があり、その結果が現地社会にとっても自国にとっても重大なものになりかねない。ときには本人にも直接跳ね返ってきさえしかねない。英語メディアでの議論は、そういったことまでも当然に想定したうえで行われざるを得ない。
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これに対して、日本における日本語の発言はどうか。そもそもイスラム世界の人々にとって、日本のイメージも相当に歪んだものであり、重視されているわけでもない。
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日本からはほとんど影響力を及ぼせない国際政治の動きが厳然としてあるということは、必ずしも悲観すべきことではない。局外にいることによって、政治的思惑に惑わされず、時間をかけ、多面的でより的確な認識を追究できる、という強みにもなりうる。ただしそのためにはかなりの自己規律が必要である。抜き差しならない当事者ではないということは、無責任に何を語ってもいいということにつながってしまいやすい。要するに、現地の現実はどうでもよくて、日本で大向こう受けすることを言えばいい、ということになってしまう。言語のモラルハザードである。
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「まえがき」らしく、やや大雑把な言い方ではあるけれど、問題意識がシンプルに提示される(話がそれるが、私はしばしば内容に歯が立たないような専門書の「まえがき」だけを読む―これがけっこう面白い―著者の情熱がまっすぐ伝わってくるのは、たぶんよい本なのだ)。
ここでは池内の本論のほうを紹介する余裕はないが、ああ、こういうモラルハザードはあるだろう……と思うのだった。
日常生活に近い場面でも、「ここだけの話」などといって、勝手なことを言い合うのは、程度の差こそあれ、誰しも思い当たる節はあるだろう。「ここだけの話」にならざるを得ないような場合、はじめから放言に罪悪感を感じなかったりもする。たわいのない内容ならばよいが、放言は、やはり放言のレベルにとどまる。
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教師をしている人と短歌の話をする。「学校のことも、どんどん題材にしたらいいと思いますよ」と言うと、それは難しいという。生徒のプライヴァシーとか、職業的な守秘義務ということがあるし、だいいち教師としての正直な思いなど、とても作品として発表できるものではないという。
少しずつ細部は異なるが、似たような場面が最近何度かあった。「生徒のことなんか歌ってもいいんでしょうか?」という質問を受けたこともある。
ある先生は、「小池さんの『佐野朋子』なんか、とんでもない」と言った。小池光歌集『日々の思ひ出』の作品である。
・ 佐野朋子のばかころしたろと思ひつつ教室へ行きしが佐野朋子をらず
事実かどうかとかいったレベルの話はともかく……と言いたいところだが、なかなかそうも言ってられない場面があることはよくわかる。フィクションであっても、現実のあれこれに結び付けて理解する人がでてくる。そうしてかえって話がこじれる。
それは教師だけでなくて、会社員をしていても会社の中のあれこれを断片として、情景描写として題材にしているのが同僚に知られると、いろいろとほじくりかえされる。人知れず短歌をつくっているうちは問題にならないが、作品が検索されたり、活字媒体にそれなりに作品がさらされるようになると、居心地の悪い事態になることは少なくない。親類家族に作品を読まれる場合も同様だろう。
だからペンネームにしてしまえ……という人がいる。どうせ短歌はマイナーな分野だから、気にする必要ないという人もいる。そんなふうに言ってしまいそうにならりながら、やはりそれはモラルハザードにつながることなのだと思い至る。
ペンネームはけしからんなどと言っているのではない。しかし、当事者であっても「ここだけの話」に逃げ込んでものを書くのだとすれば、そういう場で歌をつくるのだとすれば、よほど強く自分を律していないと、中途半端なものになってしまうおそれがあるだろう。
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小池作品の印象は、じつはそれほど重いものではなくて、明るくからっとした感じがする。佐野朋子(またはそのモデル)が実在かどうか知らないが、こんな歌を読めば「えへへへ」などと笑うだろうと思う。重点は、あたふたと駆け回る教師の自画像のほうにあるのだから。
教師をしている人の作品を少しあげてみる。もうすこし重い場面。
まずは、久我田鶴子歌集『雨の葛籠』から。
・ なんとせう夜ごとの夢にあらはれてあをじろき顔の生徒もの言はず
・ 集団の力学のなかに身を置きてナイフをつねに持ちあるくM
・ 共犯のよろこびあらは吾に訊くいちばん嫌ひな先生は誰
・ ただひとり家にゐるらしき素直さにHの声が受話器を伝ふ
・ 語気つよくもの言ふわれをドア閉ぢし廊下の声は「せんせい怖い」
このときは、荒れた高校に勤務しておられたらしい。夢の中にも生徒が無言であらわれる。ナイフを持っている生徒がいる。その生徒一人の問題というよりは、集団という場のなかで、仲間であることを示すために、あるいは身を守るためにナイフを持つのであろう。悪意の渦は教師を巻き込もうとすることもある。
電話で素直に話しているのは、ふだんは周囲に友人がいればそれを意識し、親兄弟がいれば、また意識して荒々しいことを言う生徒なのだろう。さらに、生徒は生徒で「ここだけの話」をしているのが聞こえてしまう場面もある。
酒井久美子歌集『夏刈』から。
・ 「殺すぞ」が挨拶がはりの一学期「ぞ」は強意の助詞ねとかはし
・ 先生のせいじやなかろとタクシーに慰められをり土地訛りにて
・ 差し入れは切手封筒 犬の絵のある便箋は不許可とされたり
・ しつかりと書けたる手紙の文字褒めて今担任になつた気がする
中学校である。古文の文法でかわすあたりは、なかなか面白いが、こんなふうにかわせる場面ばかりではなかっただろう。
遠い土地の少年院に送られる生徒がいてときどき面会に行く。手紙の文字を褒める歌などはとても良い。表現されていなかった多くのことが背景にあるのだろう、と感じられる。義務教育の中学校であれば中退ということにもならない。少年院の卒業式は〈卒業生の数だけ中学校長ら座りて無言 式を待つ間も〉というように、それぞれ通っていた学校の校長と担任が出張してくるのだという。
それぞれ、ドキュメンタリーとして、まずは作品の重みを感じる。ひとつひとつの場面がいきいきと迫ってくる。
あえて比較して言うと、久我作品は、作品のなかに登場する生徒とのコミュニケーションが成り立っていないほうに傾く。それで価値がどうだというのではない。実際の、あるいは描こうとしている世界の厳しさの違いの反映であろう。ただ、「M」や「H」といったイニシャルが、どうにも私には居心地悪く感じられる。かえって生々しくなるのは、そういう効果を計算したのか。
いっぽうで酒井作品は、個人を特定するようなことは慎重に避けられている。それをもって「きれいごと」などということを言う人もいるかもしれない。
どちらがよいというのではないが、いずれにしても、それぞれが、ぎりぎりのところで表現の水準を測っているのだろう。
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こういうことが問題になるのは教師だけではないのだが、職業がらかどうか、どうも先生がたはいろいろと考えてしまうようだ。何かあったときのリスクも大きいかもしれない。
しかし、自分を律して真摯につくるというのは、モラルに縛られるということとは違う。ガイドラインとかマニュアルがあるわけではないのだ。
自分にとって最も大切なことを歌うべきであって、それが現実世界にかかわることであれば、どうにかして歌うべきだろう。それはもう緊張感や覚悟というほかはない。その緊張感や覚悟こそが作品の強度を支えているのだ。
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引用中の作者名(久我 田鶴子氏)に誤記がありました。お詫びして訂正いたします。